アナログ派の愉しみ/映画◎藤山直美 主演『顔』
マスクを外した
女性たちはそのとき
落ちない口紅「リップモンスター」が大ヒットしているそうだ。花王の化粧品ブランドKATE(ケイト)がコロナ禍の2021年春に発売した商品で、マスクに色移りしないことをアピールしたものだったが、あえて「欲望の色」や「地底探索」などの奇抜な色のネーミングをつけたことも評判となり、ようやくマスクから解き放たれたいま爆発的反響を呼んでいるとか。それは、女性たちがコロナ以前への回帰ではなく、まったく新しい生き方に立ち向かいつつあることを指し示しているのではないか?
そんなふうに考えたのも、阪本順治監督の映画『顔』(2000年)の強烈なインパクトを思い起こしたからだ。
主人公は吉村正子(藤山直美)、35歳。母親が営む尼崎のクリーニング店で、日がなミシンを踏んで修繕の仕事にいそしんでいる。小さいころからドン臭くて、友だちもいなかったのが、そのまま図体だけ大きくなって、いまやほとんど引きこもり状態にあるのだった。そうしたところ、母親が突然死を遂げ、大阪でホステスをやっている妹が通夜に戻ってきて「お姉ちゃんのことがずっと恥ずかしかった」となじると、正子は逆上して絞め殺してしまう。取りあえず香典だけをバッグに入れて家をあとにしたところ、奇しくも阪神・淡路大震災が発生して、世上の大混乱のなかに姿を消すことができた。
正子は一夜の宿を求めたラブホテルで従業員として働くようになり、どこかうつろな社長から酒席に誘われたり自転車の乗り方を教わったりして過ごすうち、その社長が経営難から首吊り自殺して警察がやってくると、慌ただしく不慣れな自転車で遁走して転倒事故を起こす。ほうほうの態で九州方面の特急列車に乗り、紫色に腫れあがった顔をマスクで隠してこそこそと弁当をつつきはじめたとき、向かいの席の酔っ払いの男(佐藤浩市)からマスクを外すように促されて、正子は素直にしたがう。
その瞬間から、人生が一変するのだ。男は勤め先をリストラされた元銀行マンで、妻子が待つ実家へ帰ると告げ、あとを追うように正子も別府で下車する。そこで出会ったクラブのママ(大楠道代)に誘われるまま、店のカウンターに立ち、カラオケのマイクを握るようになって、にわかに生気を漲らせる正子――。ママの弟に鬱陶しがられたり、その弟の手引きで常連客と関係させられたりして、ひと筋縄ではいかない日々ながら、いつしか周囲が呆れるばかりにきれいになっていく。だが、破綻が訪れるまでに時間はかからなかった。ママの弟がかつてのヤクザ仲間に殺されて警察の捜査が入るなり、ふたたび逃亡を余儀なくされる。最後に、元銀行マンの男にこんな言葉を残して。
「約束してください、お別れを言う前に。月が西から昇ったら、うちと一緒になってください。もし叶わなくて生まれ変わって会えたら、またこの約束してください……」
正子は連絡船で離島へ渡ってひなびた漁村に潜り込むが、やがてテレビ報道もさかんに指名手配の写真を取り上げて身元が割れてしまう。ついに7か月におよんだ逃走劇も幕を下ろすかと思われたとき、宵闇のなかを追跡する警官たちが浜辺で目にしたのは、はるかな海面に立つ白波で、それは正子が泳げもしないのに浮き輪にすがり自由をめざして沖へ遠のいていく姿だった。このうえなくぶざまでありながら、神々しいばかりの光芒をまとって……。
この映画の主人公は、1982年愛媛県松山市で同僚のホステスを殺害したのち、全国指名手配されながら約15年にわたって逃亡を続けた「福田和子」がモデルという。その間、彼女は美容整形を繰り返したことから「七つの顔を持つ女」と呼ばれたが、正子もまた、それまではミノムシのような小さな殻に縮こまって暮らしてきたのが、ついにマスクを取り去って、まるで別人の晴れやかな顔を手に入れ、月が西から昇るように圧倒的な存在感を発揮した。それはおそらく、善悪の彼岸にあって、この世にただ一度だけ生まれ落ちた人間の本来の生き方だったのだろう。
同じように、現在の女性たちは数年におよんだマスクの呪縛から解き放たれて、ミノムシの殻を脱し、みずからの唇に落ちない口紅を引いて晴れ晴れと世界に立ち向かっていこうとしているのではないか。通常は年間10万本売れたらヒットといわれるリップ市場で、「リップモンスター」シリーズの累計出荷数が1900万本を突破したという事態は、それだけの数の正子がこの日本列島に存在することを意味しているのかもしれない。