アナログ派の愉しみ/映画◎グレゴリー・チュフライ監督『誓いの休暇』
青春にだけ許された
6日間の冒険のまぶしさ
第二次世界大戦下、ソ連軍の最前線で19歳のアリョーシャはドイツ軍の猛攻から逃げまどううち、背後に迫った敵戦車を偶然にもやっつけてしまう。その殊勲によって将軍が勲章を授けようとすると、かれは「勲章よりも母のもとへ行かせてください。そろそろ家の屋根の修理をしなければならないのです」と望んで受け入れられる。こうして少年兵アリョーシャの、最初で最後の6日間の休暇がはじまった……。
グレゴリー・チュフライ監督の『誓いの休暇』だ。わたしがちょうどアリョーシャと同い年のころ、初めてこのモノクロームのソ連映画にテレビで出会って以来、これまで何度繰り返し観てきたことだろう。そのたびに涙にくれて、もうこの導入部だけで目頭が熱くなってしまうのは「パブロフの犬」の条件反射と化したせいか。将軍がアリョーシャの希望をいったんは拒みかけたあとで承認したのは、幼い兵士の死が遠い先ではないと思い至り、その非業を現場責任者の自分さえも左右できないことへの諦観からだ、といまではありありわかるのだ。
この映画が制作された1959年とは、独裁者スターリンが世を去り、歴史的な「スターリン批判」をやってのけたフルシチョフ共産党第一書記が、ソ連の最高指導者として初めてアメリカ合衆国を訪れて、東西冷戦の束の間の「雪解け」が実現したタイミングだ。であったからこそ、党の指導のもとで国威発揚を金科玉条とするソ連の映画界においても、こうした感傷的な、ともすれば反戦映画とも受け取られかねないヒューマニズムの作品が生み出されたのだろう。
しかし、手元のDVDに付属していたチュフライ監督のインタビュー映像によると、実情はかなり違ったらしい。党の編集委員会では、少年兵を主人公とした脚本について幼稚と決めつけられたのを、監督が「これは本当にあった、私自身の人生にかかわるものなのだ」と懸命に説き伏せ、さらに全体会議が、現代劇ではなく陳腐な歴史劇にすぎないとする非難に対しては、「過去の話なものか、戦場で私が負った傷はまだ治っていないし、夫や息子を失った女たちの涙はまだ乾いていない」と抗弁して作品を完成させたものの、最終的に中央委員会は「反ソ的」の烙印を押して、監督を党から除名したうえ、フィルムをお蔵入りにする。ところが、海外の映画人の支援もあってカンヌ国際映画祭で最優秀賞を獲得したことにより、やっと公式に解禁される運びになったという。この傑作がソ連の映画史に居場所を出すことができたのは、実に奇跡に近いハプニングだったのだ。
アリョーシャは故郷に向かって急ぎながら、行軍中の兵隊から銃後の妻へのプレゼントとして石鹸を預かったり、片足を失った傷痍軍人に付き添って妻のもとへ送り届けたり。また、軍用列車の貨車のなかで出会った少女シューラとは、おたがいに戸惑いながら気持ちを通わせていく。「ねえ、アリョーシャ、男女の友情を信じる?」と、そんな不器用な言葉を口にする彼女とともに、途中駅で下車して、兵隊から預かった石鹸を届けに行くと妻は別の男と暮らしているのを目の当たりにする。そんな道行きでさえ、ふたりにとっては胸のときめく冒険だったろう。しかし、ついに訣別のときを迎えて、アリョーシャは再会の手立てもないまま、プラットフォームのシューラに向かって無我夢中で手を振るしかない。その後も乗り合わせた列車が空襲に遭ったり、やむなく筏を漕いで河を渡ったりして、故郷の村に辿り着いたのは遅れに遅れ、将軍と約束した期日どおり戻るためには、母親とただ抱擁を交わすだけの時間しか残されていなかった……。
アリョーシャを前線から送り出した将軍と同じように、ふたたび故郷から送り出さざるをえなかった母親もその死を見つめていたに違いない(息子の帰還を永遠に待ちわびているとしても)。まわりの大人が、社会が、歴史が否応もなく、おのれの死を見つめているときに、当の本人は意に介さず前を向いて突進していく姿こそ青春のものだろう。アリョーシャの6日間はひたすらまぶしい。
6日間――。映画のなかでもロシア正教の信仰に生きる人々はさかんに十字を切るけれど、かれらの宗教では、神が6日間をかけて、光をつくり、天と地をつくり、太陽と月と星をつくり、動物と植物をつくり、最後に人間をつくったとされている。つまり、この休暇は神が世界を創造した時間にも匹敵する。いや、アリョーシャにかぎるまい。だれだって青春の季節にはみずからの死などに目もくれず前だけを向いて突進したろう。以降の人生と引き換えにしても惜しくない、光り輝く6日間の冒険を経験したはずだ。わたしもまた。『誓いの休暇』はそのことに気づかせてくれる。