
ボクはモガイテイル
人を感動させたり勇気づける素敵な言葉
美味しそうな食事が並ぶ食卓の写真
などなど
確かにこのnoteの世界は、キラキラと美しくてやさしいモノたちであふれている。
それは、世界のキラキラとした断面を鮮やかに切り取るクリエイターたちがたくさん住んでいるせいかもしれない。
けど、どうしても切り取ったフレームの外側の方が気になってしまうのはなぜだろう?
それはきっと僕がどこかでそれをもったいないと思っているからだろう。
例えば、硬くて咀嚼できないから剥いて捨ててしまう果物の皮にこそ実は栄養がたっぷり含まれていた、みたいな感じで、
「こんなもの人目に晒すもんじゃない」と予め自主規制して陽の目を見なかったものたちの方にこそ、嘘や虚飾のない生々しい、その人の本当があるような気がするからだ。
そして、その文脈で言えば、人前で文章を書くという行為(いわゆる便所の落書きは除く)は、どんなに細心の注意を払ったところで、所詮、
人によく見られたい自分
を切り取る行為に過ぎないのだとしたら、
そこに書かれている内容の信憑性に異議を唱えるほど野暮なことはないのだろう。
ある有名な神社で、神様にお参りもしないで、というか周囲の参拝者の迷惑になることすら厭わずに自分が納得がいく映え写真を撮ることに必死になっている観光客がたくさんいた。
きっと彼ら彼女たちがSNSにあげたその写真はたくさんの人たちから
いいね!
をされるのだろうけど、それって本末転倒じゃね?
と激しく思ったことをふと思い出した。
ここまで極端ではないにしろ、このnoteで書かれている美辞麗句やもっともらしい記事にもそういうダークサイドがある可能性を(それは自分自身も含めて、ね)僕たちはゆめゆめ忘れてはいけないのかもしれない。
そして、僕自身は、それでも、このnoteでできるだけ、映えの外側にある世界を描きたいと考えている。
それは畢竟、汚くて、怖くて、鈍臭くて、キラキラしてなくて、稚拙で、誰かにウゲッーと吐き気を催されるような言葉に溢れたものかもしれない。
でも、はなはだ申し訳ないけど、正直に言ってしまうと僕は、決して
このnoteをあなたのために書いているわけではないのだ。
そう、ぜんぶ自分のためだ。
こんな自分でも、何とか幸せになりたい
なんとか僕が愛する人たちだけでも幸せになってほしい
というてめえ勝手な思いだけでほぼ毎日飽きもせず愚にもつかないこんな駄文を書き続けている。
そう、ただ書いているんじゃない
僕はいつだって
も書い(もがい)ているんだ。
それもめちゃくちゃ楽しみながら、ね。
っと心の中でただつぶやいてりゃあいいのだ。