これはボクからのメッセージ【すべてのno+erの人たちへ】
1.ポスト・コンテスト・シンドローム
この1週間ほど
サイドエフェクト(副作用)
にずっと悩まされていた。
原因は、no+eのある創作コンテストに参加したことである。
ありがたいことに僕の作品は、その中のある賞の候補に選ばれた。その「想像していなかった未来」に当初の僕はとても浮かれていたのだけど、今は、対照的にとても憂鬱なムードの中にいる。
それは、結局のところ受賞を逃してしまった、という結果のせいでもあるけれど、それ以上に、賞の受賞うんぬん以前に、それぞれのエントリー作品に対する読者からの熱い反響を通じて、いや、その作品自身から否応なく放たれる「表現」の輝きを通じて、自分の力量のなさを認めざるを得なかったからだ。
そして、首が痛くなるほどみんなを見上げ続けた僕は、
「途方もないな・・・」
と絶望してしまった。
2.「比較」からずっと逃げ続けてきた人生だった
同時に、この首の痛みに僕は懐かしさにも似た感情を抱いていた。
僕は第二次ベビーブーマーと呼ばれる世代で、その名の通り、とにかく子供が多くて、クラスの数も高校では20クラス以上もあった。当然、競争相手が多いからいわゆる「受験戦争」もそれなりに苛烈だった。
しかも、当時は親の資金力が物をいう今の時代と違って、純粋に自分の実力が問われたから、受験生本人にかかるプレッシャーも相当なものがあったと思う。
つまり、本来は平等なはずの人間を「偏差値」という物差しで比較して、「差別」することが常識(アタリマエ)とされていた時代だった。
なんて他人事みたいに言っているけれど、僕もその価値観を信じて疑わない人間の一人だった。いや、むしろある時期までは、その価値世界のトップランナーをひた走っていた。
学内偏差値75、主要科目オール5、京・阪・神が射程圏内
実際、これが高校2年終了時の僕の受験スペックだった。
しかし、この輝かしいスペックは、自分が相当、無理をして背伸びして獲得したものであることにも僕は気づいていた。そして、同級生たちがいよいよ本気を出す高3になったら、あっという間に彼らに追い抜かれてしまうことにも。
その不安とプレッシャーにいよいよ耐えきれなくなった僕は、高3の春を境に、勉強を一切しなくなった。
そう、僕は、みんなと真剣勝負をする前に「受験戦争」という舞台から自ら退場した敵前逃亡兵だったのだ。
そして、それ以来、会社の「出世レース」に限らず、僕は誰かと競争して優劣をつける状況や世界から周到に逃げ続けてきた。
「人を客観的な物差しで測って序列をつけるなんて、本当に馬鹿げている。人間は本来、誰もが平等な存在なはずなのだから、僕たちはただ自分の個性を磨き上げることに集中すればいいんだ」
そんな風にうそぶきながら、ずっと(口笛を吹くふりをして)生きてきた。
でも、今回のコンテストに参加したことで、そんな僕自身が誰よりも
「人を才能の優劣で比較し、たやすく序列をつけてしまう人間」
だったという
不都合な真実
を見事に突き付けられてしまったのだ。
それが今回の僕のサイドエフェクト(副作用)の本質だった。
3.息子との対話の果てに・・・
「今度こそ勝負から逃げずに立ち向かわなければ・・・」
そんなサイドエフェクトに苛まれた挙句、僕は一昨日、創作の第2作目を徹夜で書き上げて、それをno+eにアップした。
しかし、ボクの気持ちは軽くなるどころか、地面に全身がくっついて離れなくなるくらい重たくなってしまった(もちろん比喩なので、ご安心ください)。
なぜなら、宝石を作ろうとした結果、実際に出来上がった代物は、一切の輝きを放たない
灰色の石ころ
に過ぎなかったからだ。
混乱を極めた僕は、翌日、東京ステーションギャラリーで開催中のテレンス・コンラン展に足を運んで、そして、子供向けの釣りイベントに参加していた息子と東京駅で合流して、彼と一緒に家に帰った。
それぞれ違う理由で、この日は二人とも珍しく口数が少なかった。
しかし、最寄駅から自宅までの帰り道、僕は意を決して彼に話しかけた。
最初は、最近、家でちょくちょく見かけるようになったゴキブリの話題だった。
しかし、そこからいつものように連想ゲームみたいに話がどんどん芋蔓式に深くなっていって、
最終的には
「人もまた食べ物と同じように滞留し蓄積すると腐っていくものだとして、じゃあ、腐らないためにはどうしたらいいか?」
という哲学的な話になった。
この手の話は、いつもなら息子のほうが積極的にするのに、この日に限っては僕が明らかにイニシアティブを握っていた。
それは、おそらく例のサイドエフェクトを軽減する特効薬にたどり着けるかもしれない、という予感のせいだった。
そして、その予感は見事、的中したのだった。
3.僕たちはみんな、忘れられたくなかったのだ
今回の僕のサイドエフェクトは決して僕だけのものではなく、むしろほとんどの人が体験する普遍的な症状だと考えている。
なぜなら「選ばれる人」「称賛を受ける人」がキラキラとまぶしく輝いて見えて仕方ないのは、それはやはり相対的に輝いていない自分たちがいることの紛れもない証左なのだから。
そうなのだ。
僕たちは、どんなに見て見ぬふりを決め込んでも、どこかでお互いにお互いの優劣をジャッジし合って生きている世界の住人なんだ。そして、それに固執しすぎると、文字通り、人間もまた腐っていくのだろう。
でも、どんなにそういうものだと割り切ったつもりでも、この胸に生じるザワザワやモヤモヤは一向に消えてなくなる気配を見せない。
「こいつらは果たしていったいどこからやってくるのだろうか?」
感極まった表情で息子に尋ねてみたら、彼は、
「自分の存在を忘れ去られたくないからじゃない?」
と答えてくれたのだった。
そして、その瞬間、僕はずっと自分の視界を塞いでいた深くて濃い霧がぱっーと晴れていくような心持ちになった。
確かに僕たち人間は、どんなに必死に抗っても、いつか必ず死を迎えて、やがてこの世界から跡形もなく消えてしまう、
あらかじめ
誰からも忘れ去られること
が定められた存在だ。
息子の発言を聞いて、
きっとその不安におびえるからこそ、僕(たち)はできるだけ多くの人達に自分のことを知ってほしくて、できるだけ多くの人の特別になりたくて、
こんな風に人前で
「書いている」
のかもしれない
そんな風に思った。
そして、あわよくば、
自分の肉体が消え去った後も、ずっとこの世界に残り続けるような作品
を産み出したい
もしかしたらそんな大それたことまで思っているのかもしれない。
けれど、一方で、それはほとんどの人にとって
決して叶わない夢
でもあるのもまた事実なのだ。
だから、
「そんなのってないよ・・救いがなさすぎる」
とこの数日、僕は文字通り絶望していたわけだ。
けど今の僕は
「本当はそうじゃないよな」
と割ときっぱりと言い切れる。
それは息子との対話の果てに、ある考え(仮説)にたどり着いたからだった。
だから最後に、まだまだ考えがまとまりきらず、非常に言葉足らずなことを承知の上で、その内容を、自分自身、そして、僕と同じように悩み苦しみながらも「書くこと」「表現すること」をあきらめていない人々に向けてしたためたいと思う。
4. How to Live Forever for us is "Writing"
というわけで、今回、僕がたどり着いた
どんな人でも等しく
誰からも忘れ去られることなく、
肉体が消滅した後も永遠に生き続けられる方法をお話ししたい。
それは、すなわち、毎日を自分なりに精一杯、誠実に生きて、
そして、周りの人達、特に自分にとって大切な人たちには、
ちゃんとやさしく接する
という単なる心がけである。
むろん、このやり方には、突出した才能も途方もない努力も必要ない。
というか、そもそも、そうすれば、誰かの心に自分の欠片が届いて、ずっと忘れ去られることなく残り続けることを
僕たちは、すでに知っているはずなのだ。
例えば、僕自身、
ヒーローショーで優しく頭を撫でてくれたミドレンジャーのあの分厚いグローブの手の感触も、
家出した僕の手のひらに、なけなしの一万円を握りしめさせて、ボクの乗ったバスを追いかけながらずっと手を振ってくれた親戚のおばさんの姿も、
彼や彼女がいなくなってしまった今でも、
ずっと忘れ去ることなく、今もボクの心に残り続けていることを知っている。
そう、本当のやさしさや思いやりってのは、きっと時間も空間をも超越して、忘れ去られることなくずっと誰かの心の中に生き続けて、くじけそうになった人々の心を励まし温めてくれるものなのだ。
そんなやさしさが脈々と受けつがれて、その頃にはもはや自分の片りんなんて跡形もなくなくなったとしても、それでも、それってやはり最高に素晴らしいことだって思わないかい?
だから、僕はもう誰かと自分を比較していちいち
「自分には才能がない」「やっぱり偽物だった」
なんて落ち込まない(ぞ)。
そんな暇があるならば、僕は、こんな僕の周りにいてくれる人々に対して、できるだけ
やさしい人でいられる
ように努力したい。
そして、そんな日々を過ごす中で生じる自分のエモーションの軌道をできるだけ忠実になぞって、それをエッセイや創作の中に封じ込めていきたい。
そして、やがて死を迎えるその時まで、ずっとno+eを書き続けていくのだ。
これが、
ずっと死ぬのが怖かった
誰からも自分の存在を気づかれないまま、消えていくことにずっとおびえていた
どこにでもいる吹けば飛ぶような将棋の駒みたいな
僕という人間が
人生の折り返し地点で、
ようやくたどり着いた
(現時点での)
永遠に生きる方法
である。
そして、最後に、そのことに気づかせてくれたno+eとno+eで出会えたみんなに、精一杯の愛を込めて、この言葉を言わせてください。
ありがとう