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だから私は本を読む
父が死んだとき、人生って本当に終わるんだな..と思った。
父の友人や同僚が語る話には、父親、祖父としてではない私の知らない父の姿があった。
私が知らないところにも、父の人生が確かにあった。
そういう、1人の人間の人生が終わったのだと。
人生ってなに??
たぶん、私はその答えを知りたかった。
「世の中とはこういうものだ。その中に人間が生きているということはには、こういう意味があるのだ」などと、一口に君に説明することは、誰にだってできやしない。よし、説明することのできる人があったとしても、このことだけは、ただ説明を聞いて、ああそうかと、すぐに呑み込めるものじゃあないのだ。
英語や幾何や代数なら、僕でも君に教えることができる。しかし、人間が集まってこの世の中を作り、その中で一人一人が、それぞれ自分の一生をしょって生きてゆくということに、どれだけの意味があるのか、どれだけの値打ちがあるのか、ということになると、僕はもう君に教えることができない。それは、君がだんだん大人になってゆくにしたがって、いや、大人になってからもまだまだ勉強して、自分で見つけてゆかなければならないことなのだ。
中略
だから、君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでいかなければいけないんだが、しかしそれにしても最後の鍵はーコペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ、書物を読んで、それだけで知るというわけには決していかない。
中略
肝心なことは、世間の目よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。
そう、一つにはね、われわれの文化が人びとに満ち足りた気持ちを与えないっていうことがある。われわれはまちがったことを教えているんだよ。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない。自分の文化を創ること。多くの人はそれができない。私よりもよっぽど不幸だよ。ーこんな状態の私より。
人間が強制収容所生活において、外的にのみならず、その内的生活においても陥って行くあらゆる原子性にも拘らず、たとえ稀ではあれ著しい内面化への傾向があったということが述べられねばならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘らず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜなら彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。
アジア大陸の背骨といわれているけわしい山脈も、また、タクラマカンのような大砂漠も、結局、すぐれた芸術の前進をさまたげることができなかったんだ。
中略
遠い異国の文物でも、すぐれたものには心から感心して、それを取り入れ、日本の文明をぐんぐんと高めていった。そうして、日本人も、人類の進歩の歴史を、日本人らしく進めていったんだ...
言葉で説明することができないもの、答えがないもの、本はそれを考える材料になる。
最後のカギは自分自身であり、自分の経験や考えに落とし込んで、自分なりの答えを導くしかない。
でも、材料なしで答えを導くのは難しい。
だから私は本を読む。