『祭り上下』
高校生の頃、近所のスーパーでアルバイトをしていた。
そのスーパーには近藤さんという二十代半ばの女性の社員さんがいた。
彼女は小柄で華奢で、そして絵に描いたような美人だった。ただ、無口で表情の変化が少なく、とっつきにくい人でもあったので、同い年のバイト仲間は「いつも一人でお菓子食ってるだろ。いくら綺麗でも、いい年してヤバいだろ」と彼女を苦手としていた。それに対して僕は「まあ、どうだろう」と適当に言葉を濁した。
アルバイトを始めた当初は僕も近藤さんの華麗な容姿に魅せられ、彼女に恋心を抱いていた。
バイト仲間の彼と違って僕は彼女の嗜好は気にならなかったけれど、担当部門が違い、孤高の気配を漂わせて淡々と仕事をする彼女は僕にとって高嶺の花であり、到底、手の届く存在だとは思えなかった。第一に彼女は既婚者だった。
恋愛感情を抱いたところでどうにかなるわけもなく、あまりの距離感に次第に恋心は薄れていき、アルバイトを始めて数ヶ月が経過した頃には自分が近藤さんに恋心を抱いていたことさえ僕は忘れていた。
丸二年ほどアルバイトを続け、三年生の夏休みに僕は退職の旨を店長に伝えた。来年の春からは親元を離れ県外の専門学校に行くことを決めていた。
最後の出勤日には社交辞令的な労いの言葉を何人かの従業員からやっつけ気味にかけてもらった。隣接する神社で縁日が開催されていたために店内は大賑わいで、辞めていく高校生のアルバイトの相手をしている暇など誰にもなかったのだ。
「呆気ないものだな」と少し落胆しながら僕は着替えのために休憩室に向かった。
休憩室の扉を開けると私服に着替えた近藤さんが一人で椅子に座っていた。今日もいつの間にか彼女は退勤していて、最後の挨拶が出来なかったことを心残りにしていたために、ほっとした。
「今日で終わりなんですよ、お世話になりました」
「知ってる」
近藤さんはゆっくりと立ち上がり「着替えが終わったら、お祭り行こう。奢ってあげる」と無表情に言った。
「なぜです?」
「餞別。行こう」
状況がよく掴めなかったが僕らは二人で縁日をやっている神社に出向いた。
屋台を見て歩きながら「なぜです?」と僕は再び訊いた。
「好きなんだよ、お祭り」と彼女は言った。
近藤さんは異常な不器用だった。
金魚掬いをしても、スーパーボール掬いをしても、輪投げをしても、何一つ景品を獲得することが出来なかった。買ったリンゴアメを一口噛った瞬間に棒が折れて地面に落ちた時にはさすがに気の毒になり、僕がお金を出して新しい物を買ってあげた。
それでもめげずに別のゲームに挑戦しようとしたので僕は手に持っている景品をすべて彼女にあげることにした。
「これ全部、帰りにあげます」
「え、いいの」
無表情を保ったまま彼女は目を輝かせた。
最後に射的をした。
予想通り彼女の放った弾は明後日の方向に飛んでいった。
「どこに撃ってるんですか」と僕は笑った。
「楽しかったよ。お祭り行こうと思ってたけど、一人じゃ退屈だから。丁度よかった」
バス停までの道すがら、彼女は言った。
「お祭り好きは意外でしたけどね。近藤さん、大人っぽいから」
「好きなことが変わらないんだよ、昔から。私は大人の真似をしてる子供だから。ほかの大人はそうじゃないみたいだけど」
「大人になれば自由だと思ってたけど、そうでもないんですね」
「窮屈なんだよ、実際のところは。いろいろと。子供が無理して大人を振る舞ってるわけだから」
彼女は続けた。
「心の底では私、友達と砂場でお城を作ったり、鬼ごっこしたり、水風船を投げ合ってびしょ濡れになったりしたいわけ。旦那と将来の話とか、義母との関係とか、上司とか部下とか、御中元とか御歳暮とか、今晩の献立とか。逃げ出したいくらい疲れる。おままごととは勝手が違い過ぎてね」
「逃げたらいいのに」
「逃げ切れると思う?」
「大人のふりをしてるだけの子供ならいけそうです。子供って逃げ足早いから」
何より、と僕は続けた。
「楽しくない毎日より、楽しい毎日を選んだ方が、楽しいに決まってる」
近藤さんは「言われてみれば」と唸った。
バスが到着して乗車口が開くと彼女は僕の荷物を指差し「くれるって言ったよね」と僕を睨みつけた。
景品を渡すと彼女はにっこり笑った。
「元気でね、またどこかで」
ドアが閉まり、バスは発車した。
僕はまた少し近藤さんのことを好きになってしまったが、数ヶ月が経つ頃には彼女のことも元バイト先のことも綺麗に忘れていた。
それから三年が過ぎた頃、そのスーパーの元バイト仲間から『やばい』とLINEが届いた。彼と連絡を取り合うのは辞めた時以来だった。
動画が添付されていて、僕はそれを再生した。
そこには大阪にある某有名巨大テーマパークが映っていた。
夏のイベントを開催しているのか、カラフルな衣装に扮装したクルーが、来場者の子供たちと水鉄砲を撃ち合って大騒ぎをしている。大人も子供も関係なしで、本気で遊んで、全員がびしょ濡れになっている。お祭り騒ぎだ。
すると画面は一人の女性クルーを集中的にとらえ始めた。その女性は人一倍張り切って、楽しくて仕方ないというように、子供に混じり、子供に囲まれ、全身びしょ濡れで、手を叩いて、大笑いをして、水鉄砲を撃っている。
『最初、近藤さんて気づかなかったよ。お前が辞めたあとに近藤さん、離婚して、仕事も辞めたんだよ。離婚して転職して、おかしくなったんだな、こりゃ。いい年してヤバ過ぎだろ、この人』
元バイト仲間から続けざまにそんなLINEが届いた。
僕は元バイト仲間に『ヤバいのは何も知らないくせに人を小馬鹿にしてる、お前だよ』とLINEを返した。
それからまた動画を最初から再生した。
近藤さんは三年前よりもずっとずっと美人になっていた。
僕は彼女に恋をしていたことを思い出し、縁日を思い出し、彼女が今、幸せそうに生きてることが嬉しくて仕方なくなった。
ただ、やはり彼女の撃つ水鉄砲は明後日の方向へ飛んでいく。撃っても撃っても、外れる。
僕は堪えきれなくなり笑った。画面の向こうの彼女に向けて言った。
「どこに撃ってるですか」