スローで生きることの意味・News DietのすすめⅢ
序章・電子機器のスイッチを消すと訪れる世界
電子機器のスイッチを消すと何が訪れるだろう?
私がそれを認識したのは、つい最近、自分の部屋で読書をしている時だった。
部屋にある窓の外の生垣から、木をつつくテンポの速い連続音が聴こえてきたのだ。
私はゆっくり立ち上がると、カーテンの隙間からこっそりと飛来したキツツキを観察した。
3分ほどの時間だったろうか?
部屋に居ながらにして偶然到来した客を出迎えているような嬉々とした気分だった。
この時のシチュエーションを考えるといくつかのポイントが浮かんでくる。
それは、キツツキの飛来に気づけるだけの注意と環境があったということだ。
第一に、スマートフォンはその時近くにはなく、触ってさえいなかった。
他のデジタル機器に関しても同じだ。だから、キツツキをすぐに観察できるだけの余裕と注意資源があった。
第二に、キツツキはあたりに人が複数いることもなく、工事をしているわけでもなく、車が来ていたわけでもない、静かな環境にちょうど飛来したのである。
まとめると、外のタイミングと環境、自分のタイミングと環境、その両方が好運にも揃っていたからこそ、キツツキを部屋に居ながらにして観察できたと考えられる。
だが、ここで疑問が浮かぶ。本当に運が良かっただけなのだろうか?
キツツキが訪れる外の環境はコントロール外にあっても、デジタル機器がそばになかったことはコントロールできた。
すなわち、電子機器のスイッチを消したことで訪れた出来事だとも言えるのであり、電子機器に注意を奪われるかどうかは自分で選択できる。
これはこのような出来事に限らない。
日々の生活を振り返ると、電子機器がなく、デジタル機器に接続していなければ本当は何が訪れただろうか?私たちには電子機器があることによって失われている部分が、得られている部分よりも、大きい時があるのではないだろうか?(ただ、意識的に使っている場合は別である。例えば、Noteの執筆や読むこと)
例えば、親しい友人や家族との重要な会話、散歩、読書、自然観察や自然体験、相談に乗るとき、打ち合わせなどの際には、スマートフォンを必要以上にいじるのは、賢明ではないことも考えられる。テレビに関してもそうだ。
注意資源は限られているからこそ、100パーセント注力したい対象がある場合には、電子機器は邪魔でしかない場合が多いように私には思える。
それに、電子機器のスイッチを消せば、自分のアタマは静かになり、クリーンになる。ガチャガチャした音は消え、頭と心、周囲がすっきりする。
ニュースの代わりに瞑想と心の平穏を保とう
電子機器のスイッチを消すと、心の平穏が訪れる。というよりも、心の平穏は、電子機器やそれによるニュースによって乱されることが多い。
これは私自身の実感だ。
私にとっては、ニュースダイエットの原典でもあるロルフ・ドべリ著、『News Diet』(サンマーク出版)には、13章、「ニュースは体に害である」があり、その章において、次のように説明されている。
ニュースは、私たち人間の本能である、ネガティブバイアスを巧みに利用するようにつくられている。
だから、私たちは、ポジティブなニュースよりも、ネガティブなニュースに強く反応する。
この本の13章を読むと、ニュースは内容によってはストレス症状を引き起こし、精神的な悩みを深刻化させかねないことがわかる。
だが、「内容によって」ではなく、私自身はテレビというメディアのもつ性格自体が、ストレスホルモンの発生のもとになっているようでならない。
つまり、テレビはソーシャルな媒体であり、家にあり、スイッチをつけることによって、家の中に外的で動的な社会空間が出現してしまうのだ。言い換えると、室内の環境が情感的に変質する。
本来、休息と安眠、自然なふれあい、健全な愛を育む場であるはずの家にテレビがあることによって、そうした安らぎが阻害されることがある。
例えば、家族の安らぎの場である家に素性が全くわからない、見知らぬ人たちがパーティーをしてガヤガヤと騒いでいるとしよう。
そんな環境で落ち着いてくつろげるだろうか?もっとしたいことがあるはずではないだろうか?その騒ぎに参加する義務はあるのだろうか?
少々極端な例えかもしれないが、その騒ぎがテレビのスイッチをつけて現れることである。
ショーン・スティーブンの次の指摘は、端的である。
ただでさえ、ストレスのかかる現代社会の生活において、わざわざ家にいてまでテレビなどの電子機器によってストレスを発生させたくない。
それが私自身の正直な感想である。
ただ、音楽や大自然、教養を育むもの、質のよい映画やドキュメンタリーといった私たちの心を楽しませ、和ませてくれる内容の番組は歓迎だ。その他にも人によってはそうした番組やコンテンツは見つかるだろう。だが、安らぎや心の平和と平穏、心の豊かさを乱してまでテレビ番組や動画につきあう義務も時間も心の余裕も当然ながら私たちにはない。
禅僧であり、学者であり、宗教指導者である、ティク・ナット・ハンは、『あなたに平和が訪れる禅的生活のすすめ』アスペクト社のなかの「5つの気づきの実践」において、毒を含むようなものは見ない、聴かない、読まないという意識的な消費の実践をアドバイスをしている。
「テレビ番組、雑誌、本、映画、会話などに関しても、有毒なものは取り込まない」(P.104)
案外忘れられていることがある。それは、「憎悪」は伝播するということである。強烈で毒性の強いニュースは、人々の心に憎しみや怒りなどといったネガティブな感情を湧き起こす(たとえそれをはっきりと自覚していなくても)。
そもそもメディアとは、あるものを容器に入れて、人々に届けるものだ。
容器に入っているものの中身に対して、無頓着であってはならない。
ティク・ナット・ハンは、同書で次のように述べている。
アカデミー賞にノミネートされるような記録映画は別として、暴力シーンが強烈な暗澹たる日本のドラマを私は見たことがある。
この本は2005年に出版された本だが、最近はどうなんだろうか。
もうそうした番組が完全になくなるとは到底思えないので、この忠告はいまだに重要である。
まとめると、中身が心を和ませ、平穏にするものならいいが、そうでない場合の方が多い気がする。テレビの画面や動画に映った暴力にまつわる画像や映像をみただけで、「憎悪」は伝播すると思っていいと私は考えている。だからこそ、ニュースダイエットが必要なのだ。
ニュースの代わりに「限定的後退」をしよう
「限定的後退」という言葉を思いついた。
この言葉は、ニュースダイエットにも適用できる。
現代では、ニュースが伝播する速度は人類がこれまで発明したどんな乗り物よりも速い。出来事が起きて、ニュースが報道されるまでのスピードも非常に速い。
スローダウンの時代に突入しているとはいえ、社会がスピードによって忙しなく回っているように私には感じられる。
だからこそ、ニュースが伝播する速度が人間が走る速度と同じだった時代に限定的に後退してみてもいいのではないだろうか。
そもそも私たちはニュースを知るのが速すぎないだろうか。
反応するのも速すぎる。
現代においてニュースが伝わる速度が古代においてニュースが伝わる速度と同じだったと仮定してみよう。
人々は、ニュースの出来事を数日後、あるいは一週間後くらいかそれ以上後に知り、はじめて反応することになる。
だが、考えてみると、ほとんどのニュースはそのぐらいの時間が経ってから知ったとしても何ら困らない。
むしろ、自分だけがその速度で知ることによって、速く浅薄な反応をしなくても済むし、自分にとって本当に重要なことを優先できる。
ストア派哲学者のセネカは、「怒りについて」において、ある出来事に対して怒りそうになったら、明日まで待ってみるという怒りに対する対処法を説明している。セネカの怒りに対する対処法は、ニュースにも当てはまる。
ニュースに反応するのを三日後か、一週間後まで待ってみるのだ。
その時になるまでニュースを全く見ないようにする。あるいは、一年後までニュースを知るか、知ったとしても反応するのを待ってみてもいい。
その時になってからでは知る意義の無いニュースは、最初から知らなくてもよかったということだ。そして、ほとんどのニュースがそれにあたるのではないだろうか。
また、現代では、チャットツールを始めとする即時にコミュニケーションが可能なSNSが発達している。
だが、そのようなコミュニケーションツールは即答ツールでもある。即レス文化などとも揶揄されたが、SNSを手紙と同じであると発想を転換して捉えた方がいいのだという人もいる。
電子的な進歩以前、かつて先人たちは、郵便制度を利用した手紙によって精神的に深い交流をしていた。あるいは、郵便制度誕生以前を考えてみてもいい。
手書きなので、ペンを握り、精一杯想いと理性と知性を駆使して、じっくりと心の底からメッセージを組み立てていたし、相手のメッセージもじっくりと精読していた。だからこそ、空虚な内容ではなく、密度の濃いメッセージで心温まるような交流をすることができた。
そうした手紙は、文学作品や第一級の歴史的資料にまでなったものもある。
手紙は書くのには時間と労力がかかるし、交換するのにも、それなりに時間がかかる。
だが、そのスローな性質がむしろ、健全な距離の関係性と血の通った精神的な交流を可能にしていたのだろう。
ニュースの代わりに朗読をしよう
朗読と聞いて私が想い浮かべるのは、啓蒙主義時代のサロン文化である。
ディドロやダランベール、ルソー、モンテスキューといった名だたる文人や学者が集り、文学や芸術、政治や宗教や思想といった知的なテーマについて広く論じられた。
そこでは、ヴォルテールの書いた悲劇の原稿が朗読されていた。
このサロン文化の朗読を現代において家庭内や友人との会話に用いることができる。
例えば、本の中で感銘を受けたり、心に響いたり、啓発されたり、考えるきっかけになった箇所を文脈を添えた上で家族や友人に読み聞かせる。
その箇所の朗読から、様々な感想や意見、連想が生まれ、自分では気づかなかったような視点を得られるかもしれない。
受容できるという反応もあれば、その箇所に対して賛同しかねるというコメントや判断を保留したいという反応もあるだろう。
だが、本とはそういうものである。疑問点が出なければ意味がないのだから、そのようなときはむしろ相手の考えに傾聴することができる。
とはいえ、読み聞かせに関しては、私自身、まだまだ経験不足であり、ここで書いたことは自分へのアドバイスでもある。
ただ一つ思うのは、本に書いてある主張と自分の感想や考えを区別した上で、伝えることが留意点かもしれない。
学齢期の子どもや幼い子どもを対象とした読み聞かせは、図書館ではよく行われている。
けれど、成人同士で読み聞かせをし合うという催しは少なくとも私の知る限りは地元の図書館ではあまり行われていないように思う。
現代においては、オーディオブックがあり、わざわざ他人の読み聞かせを聞く必要はないという意見もあるだろう。けれど、身近な人からその人の関心のある本の内容を聞くことで、会話が豊かに広がる。
それに、読み聞かせが行われている際には、電子機器のスイッチを消さざるを得ない。それによって、室内の空間的環境が人間中心的になる。
魅力ある図鑑や自然や科学をテーマにした雑誌(ナショナルジオグラフィック誌とか)を親子で一緒に読むイメージ写真を見たことがあるが、なんだかいい雰囲気だった。これも人間中心的だからだろう。
ニュースの代わりに自然を散策しよう
ナショナルジオグラフィック日本版の2016年5月号の特集、「まるごと一冊 自然と人間 理想のバランスを探して」によれば、森林の散策でストレスホルモンの一種が最大16%も減ることがわかっているのだという。
この記事で、ニュースの視聴で感情を乱されるような話を見聞きすると、ストレスホルモンであるコルチゾールが放出され、免疫システムが弱まるという引用を先述した。
森林の散策ではストレスホルモンの一種が減り、ニュースでは場合によってはストレスホルモンのコルチゾールが放出される。
だったら、ニュースよりも自然を散策する方が心身のためである。
また、その特集では、自然は創造性を最大50%高めるという。
自然を散策することで、心は落ち着き、創造性もアップし、脳が休まる。
「自然は脳の良薬」だとするこの特集記事のメッセージには思わず頷いてしまう。
また、ニュースの代わりに自然界のニュースに耳を傾けることもできる。
自然界のニュースとはなんだろう。
それは、四季によって移り変わる景色の微細な変化であり、近所で鳴いている野鳥たちの姿と声であり、空模様であり、樹々たちの揺れる音、肌で感じる風の感覚、近所や森林を歩く時の匂いであり、地面で活動する昆虫のなりわいである。
自宅から一番近い公園と二番目に近い公園と三番目に近い公園。そのなかで、最も自分が気に入った公園を選ぶことができたら、その公園で一定の時間を過ごしたり、思索の拠点にすることができる。
ニュースの代わりに本屋と図書館へ行こう
ロルフ・ドべリ著『News Diet』では、ニュースの代わりに良質な本や長文記事を読むことが提案されている。
それはなぜなのだろうか。
それは、物事を深く理解するのには、時間がかかるものだからというのが私の解釈である。
何か世界で事象が起きたとして、その事象が起きたことはニュースで報じられる。だが、その事象の意味については、しっかりと検証・分析されないとわからない。深層には何があるのか。背景はなんだろうか。
なぜ、どうして、どうやってその事象が起きたのか。
それを深く理解するには、科学と集合知、そしてマンパワーのありったけを駆使しないとわからないことがよくあるのではないだろうか。
良質な本や長文記事はそのためにある。そして、そうしたものを読む際には、当然個々人の関心による選択と組み合わせが機能する。
そのメニューはニュースのようなフルコースではなく、選択的な料理である。食べたいものを意識的に選んで自分に必要な量を健康的に摂るのである。
もちろん、この例えは、お米や魚や野菜といった食べ物のことではなく、情報の摂取についてである。
図書館や書店をニュース源にすることは、複雑なこの世界において十分に意義のあることなのだと『News Diet』を読んで気づかされた。
おわりに
6000字を超える長文記事となりました。
ロルフ・ドべリ著『News Diet』に啓発され、自分なりにニュースダイエットを考えてみようと、今回の記事で三本目を書きました。
この本の基準から言ったら質の良くない記事かもしれませんが、お付き合いいただいたことに感謝します。
今回の記事は、内容に疑問や矛盾点を見つけたら「再考」し、下書きに戻すつもりです。
電子機器で心が乱されると書きましたが、Noteの記事を読む時間は、私にとって穏やかで楽しい時間です。
ご清聴ありがとうございました。