読書老子の朝日記No.5
ナチュラリスト、ギルバート・ホワイトの著書に『セルボーンの博物誌』(講談社)がある。
この書物の存在を私が最初に知ったのは、ガイア理論の大成者であり、エンジニアであり、英国王立協会フェローだった故ジェームズ・ラヴロック氏の著した、『ノヴァセン』(NHK出版)においてだった。
『ノヴァセン』でラヴロックは、ホワイトの『セルボーンの博物誌』を次のように説明している。
ホワイトの『セルボーンの博物誌』(講談社学術文庫・山内義雄訳)を私は神保町まで行って古書店で入手した。
大事にしている。
ただ、まだ愛読書と言えるほど親しくなっていない。
もっと深く読み込む機会を蓄積することが必要だ。
あと、自分の知的水準よりも上の本だ。格調も少し高い気がする。
黴が生えていたので、やすりで落としてから日光消毒をした。
だが、それで買った当時の芳香が薄まった。
私にとっては息子のように大事にしている本だから、神経質になっていたのは確かだ。
この本を大切にしようとの一心だった。
『セルボーンの博物誌』をラヴロックは、いまも有用な科学の教科書だと言った。
科学の古典の読解に意欲があり、自然界への理解を深めたい人にはうってつけの本だろうと思う。私もその一人だ。
なぜ『セルボーンの博物誌』はいまも有用な科学の教科書となりうるのか。
私なりに解釈してみる。
それは、自然界を理解する上で、自然観察は基礎にあり、これだけ精密科学が発展した現代だからこそ、自然界を自分の身体(目と耳と鼻と手と足、五感)をフルに使って探索するナチュラリスト的なアプローチの役割が決して廃れていないことにあるのではないか、と考えたりする。
ホワイトのように自ら森林や原野を実際に歩いて、自らの身体性と精神性を自然界と直接なじませる姿勢は、センスオブワンダーに溢れ、生命に対する豊かな愛情と素朴な驚異と好奇心に通じている。
そこには、ある種の精神的な健全性をも私は感じる。
だからこそ、『セルボーンの博物誌』は稀有な文学作品にもなった。
『セルボーンの博物誌』には、特有の雰囲気というか、香りがある。
それはただ匂いというのではなく、森林を歩いている時に感じる、あの精神的な落ち着きと心身がみずみずしく回復するようなあの感覚の一端である。
きっと私たち現代人の多くは、自然を五感を使って感じ、探求する感覚を忘れたかもしれない。それはアントロポセンによってホワイトの歩いたような豊かな自然の多くが消失したことが関係している気もする。
コンクリートジャングルは心を荒廃させると言った人がいた。同感だ。
もしかしたら、紙の書物というメディアは、アントロポセンが進行する以前の自然に近いのかもしれない。
理由の一つとして、身体性に最もフィットしているからだ。
『セルボーンの博物誌』を読むのは、自然を読むことと同じだ。
その自然は、急激な爆発的変化によって進行中のアントロポセンによって失われる前の原・自然である。
だからこそ、その記憶をふたたび身体的な生の体験として復権し、再現できるように私たち一人一人に託されているのだろう。
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