日本帝国の国家神道と天皇・天皇制-明治時代に「創られた神話」そのものであった政治支配のための宗教思想-
※-0 島薗 進(しまぞの・すすむ、1948年12月10日- )は東京都出身の日本の宗教学者,血縁者などには著名な医師や学者がいる。
現在は大正大学地域構想研究所客員教授,グリーフケア研究所客員所員,東京大学名誉教授,上智大学神学部特任教授,グリーフケア研究所元所長。世界平和アピール七人委員会委員も務める。
島薗 進の研究内容は,宗教を基盤に社会的・文化的事象への興味をもち,多数の著書・論文等を公表してきた。また,フィールドワークも積極的におこなっている。
著作については多数を有するが,ここではまえもって,『原発と放射線被ばくの科学と倫理』専修大学出版局,2019年のみ紹介しておく。
宗教学者である島薗 進は原発問題に対しても積極的に発言していたが,その発言内容,発想の基盤に関しては,原子力工学の専攻者からは発信しえない独特の観点からする分析・議論がなされていた。
島薗 進はともかく,宗教問題に関した自身の視座を当てて,社会問題として宗教(とくに国家神道)のみならず,その関連する諸領域にまでつらなる独自の詮議・討論を実践したところに特長がみいだせる。
本ブログの本日のこの記述がとりあげ議論する対象は,島薗 進の著作のなかから『国家神道と日本人』岩波書店,2010年7月を選んで学びつつ,筆者なりに討議していくことになる。
※-1 明治以後に創られてきた「日本の天皇制と国家神道」-いまも創られつつある「国家神道」の一環だが,その中枢である「皇室神道」が日本・日本人・日本民族にとって,どのような意味がありうるのか?
★ 日本人のなかの国家神道-歴史的な淵源- ★
島薗 進『国家神道と日本人』岩波書店(新書),2010年7月の新聞広告が当時出ていた。本ブログの筆者にとって興味のある書物であり早速,購入して読んでみた。岩波新書であってか,それほど専門書風の記述方法はとっておらず,比較的読みやすい文章で書かれてもいる。
ただし,本書の内容じたいは専門的な論究である。本書はとくに,いままでいささかむずかしい政治的な論点であるかのように議論されてきた対象,すなわち「明治維新以降における天皇・天皇制の創造」,およびこれと密接に対応していた「国家神道の創置・展開」に関する〈歴史的な位置づけ〉を的確に判断するための考察を与えている。
岩波書店のホームページをのぞくと,本書を,かなりくわしくつぎのように解説されていた。さきにこの目次を紹介しておく。
そして,この島薗 進『国家神道と日本人』岩波書店,2010年の主旨はこう解説されていた。
『国家神道と日本人』2010年のなかで,著者の島薗 進(しまぞの・すすむ)は,こう紹介されていた。
1948年東京都に生まれる。現在,東京大学大学院人文社会系研究科,文学部宗教学科教授。専攻は近代日本宗教史,宗教理論研究。
著書は2010年当時までとなっていたが,つぎのものが挙げられていた。
『現代救済宗教論』青弓社,1992年(新装版,2006年)
『精神世界のゆくえ』秋山書店,1996年
『現代宗教の可能性』岩波書店,1997年
『時代のなかの新宗教』弘文堂,1999年
『ポストモダンの新宗教』東京堂出版,2001年
『〈癒す知〉の系譜』吉川弘文館,2003年
『いのちの始まりの生命倫理』春秋社,2006年
『スピリチュアリティの興隆― 新霊性文化とその周辺』 岩波書店,2007年
『宗教学の名著30』筑摩書房,2008年。
島薗 進の最近作については,末尾の「参考文献の紹介:アマゾン通販」がその書名を紹介している
※-2 論旨は論点の適当なる抽出
本ブログの筆者がこの島薗『国家神道と日本人』を読了し,とくに感じたことがある。同書は,いままでひもといてきた『〈日本の天皇・天皇制〉と〈国家神道〉』とをめぐる学問的な認識枠組として評価するに,その歴史的な由来と論理的な仕組を,相当程度本質的に解明しえている,という点であった。
本ブログの筆者がこれまで,いくつかの論著において強調してきたのは,基本的に日本の天皇・天皇制が〈創られた〉時期は「近代の明治」時代に求められるという見地であった。
本ブログの記述はすでに,「あまりにも当たりまえであったその関連の論点」を,なんども繰り返しとりあげ議論してきた。それらの記述はだいぶ以前に公表してきたものゆえ,こではそれら題名のみ列記しておく。
筆者がここ半年(ただし2009年から2010年まで)のあいだに公開していたつぎの8日分の記述が,前段の指摘に該当する中身をとりあつかっていた。なお,これらの記述のなかには,すでに改訂・補正・更新したうえで,本ブログ・サイト内で公表してきた記述もある。
「昭和天皇の『玉音放送(終結ノ詔書)』と『人間宣言』」
「靖国神社における祭主:天皇の位置」
「喪服の色はなぜ黒なのか?」
「明治の時代が意図的に創ってきた皇室・皇族」
「古墳と天皇家と宮内庁」
「天皇・天皇制の歴史・存在・意義・制限」
「思想問題としての天皇・天皇制」
「天皇・天皇制問題に関する著作2書」
以下から本論に入る。島薗 進『国家神道と日本人』2010年を紹介しながら記述し,議論する構成になっている。
1) 皇居にある宮中三殿-明治以来,いまの日本国東京都の中心にある天皇家のための神殿-
まず最初に強調されるべきは,天皇・天皇家が親祭する皇室祭祀,つまり天皇がみずから祭司の役割をになう祭司は13ある。しかしながら,そのうち「古代以来のもの」は,毎年の稲の新穀を天皇が天神地祇とともに食する《新嘗祭》のみである。また《神嘗祭》は新穀を神に捧げるもので,伊勢神宮のもっとも重要な祭祀であるが,新たに「宮中」〔東京の皇居〕でもおこなうことになった。
「他の11の祭祀」はすべて新たに定められていた。その新しい祭祀としてきわだつものは〈元始祭〉と〈紀元節祭〉である。1月3日におこなわれる〈元始祭〉は,天孫降臨,すなわち天津日嗣(あまつひつぎ,皇位)の始原を祝い,2月11日におこなわれる〈紀元節祭〉は初代天皇とされる神武天皇の即位とその日を祝う。
天皇が親祭する「その他の9つの祭祀」は,例年おこなわれる『神武天皇祭,春季・秋季皇霊祭,春季・秋季神殿祭,先帝祭(明治期は孝明天皇祭)』など,『天皇家の先祖祭』であり,いわば神武天皇から現天皇に至るまでの「万世一系」と唱えられた歴代天皇の祭祀である。とくに「万世一系」は国体論の核心をなす概念である(以上,24頁)。
補注)ここまでの島薗の記述を引用しただけでも,明治以来「創られてきた天皇制」の政治的なまやかしぶりは,かなり鮮明になっている。
天皇家〔=個人・家族〕の祖先が日本の国体の由来になるなどと,恣意的に決めたその政治宗教的な価値判断は,いったい,いつ・誰がどのようにして決定したのか?
実在もしなかった「歴代の架空の天皇」=「天皇家の〈人間たち〉」が,なぜ,日本・日本国の祖先〈神〉とされねばならなかったのか?
「万世一系」という歴史的連続性を無理やり仮想しようとする概念精神は,なにも天皇・天皇家の人間たちに例外的に特有の〈系譜の事情〉ではない。いわば「アダムとイヴ」にまでさかのぼれる,われわれ人類全員に共通的にいえる,それこそ〈億万人の一系〉性のそれであった。
その意味でも,これほど馬鹿らしい「万世一系」という「神話=童話的な作り話」はない。奇想天外でなければハチャメチャにおとぎ話風の歴史物語の創作であった。
また,明治以来において「創られた〈作り話〉」,つまり,日本帝国=「国体」の万邦無比性を強説するための「それ」であった。そうだとみていおけば,おとぎ話として受けとめる話題としては多少,興味が湧かないわけではない。だが,それもあくまで稚拙な〈イワシの頭もなんとかのうち〉の域を出るものではない。
なによりも,とくに明治天皇と大正天皇とはだいぶ異なって,昭和天皇や平成天皇は本気になって,「架空の天皇である神武天皇」の即位〔=紀元節2月11日〕を祝っただけでなく,自分たちの皇位の始原になったと信じこんでおり,いわば,あの「天孫降臨」の観念にもとづいて,
皇位:天津日嗣(あまつひつぎ)のための〈始原祭〉〔1月3日〕も祝うのであれば,この天皇家における想像上の「架空祖先〈神概念〉」は,日本国民みなが,好むと好まざるとにかかわらず,不可避に共有〔を強制〕させられるほかない「神話解釈」になっていた。
『象徴天皇に戴いている日本国民』は,はたしてそのような「天皇と国民〔臣民?〕」の〈上下関係〉を,大昔から本当に望んでいたのか? だが,のような史実はありえない「想定話」であった。
そもそも,あったかなかったか不詳の事情が,それこそ好き勝手に「歴史物語」として造形された明治時代を,いつまでも勝手に過分に評価しつづけているようでは,いつまで経っても「坂の上の雲」的な歴史観から一歩も外に出られない,自由でいられない「この国の民の意識水準」で終わる。
国民が望んでいるとしても,いつ・誰がそのように決め,これにしたがわせたのか?
明治憲法と天皇睦仁との関係性はひとまず置くとしても,日本国憲法においていちばんエライ「人間」は,間違いなく《象徴であるはずの天皇》裕仁自身になっている。
われわれが忘れてはならない,だいじな1点がある。それは,明治維新以降の日本帝国は《天皇=玉》を担ぎだし,臣民〔国民〕支配の用具に創りなおし,政治体制的に利用しだしたことである。天皇制に厚化粧をほどこし,これをたくみに活用する国家の方途を開削していったのである。
そもそもの話,「古来からの皇室の伝統」というおためごかし:歴史的にも大きなウソがしこまれていた。
〔島薗に戻る→〕 いまも毎年・毎月・毎日,平成天皇夫婦が本気になってつづけている皇室祭祀は,「伝統的」とか「古来以来の」といわれることが多い。
だが,その皇室祭祀は実は,明治維新にさいしてきわめて大規模な拡充が経ており,しかもその機能は当時の粉飾というか扮装の演出によって,いちじるしい変化をこうむってもきた。
それは,ほとんど新たな制度の創出といえるほどの変容を起こしていた。この点をとりあげずに国家神道を論ずることは,近代日本の宗教地形を論ずるにならない。それほど,その変容は深い意義をもっていた(20頁参照)。
島薗は,そうした明治維新を契機とする日本の皇室に起きた顕著な変容を,さらにこう語っている。
近代の西洋で育てられた国家儀礼システムを参考にし,国民の忠誠心や団結心を鼓吹する方策を編み出していくことによって,古代的な理想の再現と理解された祭政一致の体制づくりが促進されたのだ。
このように一見,後ろ向きに見える理想とナショナリズムによる新たな国家建設という目標が共振するという事態は,けっして珍しい事柄ではない。現代世界の宗教ナショナリズムや原理主義の興隆とも照応しあう現象といえる(28-29頁)。
補注)本ブログの筆者はここで,さきに釘を刺しておきたい。
--「現代世界」に実在するという「宗教ナショナリズムや原理主義の興隆とも照応しあう現象」として,日本の天皇・天皇制をいきなり一気に〈丸飲み的〉に許容・認識させようとするかのような「島薗の〔珍しくはない〕見解」は,要注意であった。
明治維新時に生まれ「創られた天皇制」は,日本の歴史的に特殊な事情に照応するかたちをもって,政策的・人為的に準備・普及させられていった。だからといって,現代世界にも類似主義の国家システムが多く実在するという理由を挙げて,明治期の天皇制度「存在」それじたいを無批判的に「是認するかのような」視点〔→語り口〕は,賛同できない。
1) でも言及してみたように,日本帝国の臣民たちは「近代における天皇・天皇制」というものを,はたしてどのように受けいれていったのか?
歴史のなかにおいて現実的にみていき,その道程を具体的にしることになれば,日本の「天皇・天皇制の作為性」はただ,「伝統」に大きく付加された「新しい創造:人工的な造作物」であるという事実が,適格に把握できるはずである。
それゆえ,明治以降に創造された「日本帝国の〈国体〉概念」に立脚したつもりになって,日本という国の体裁がようやく整いはじめた時期〔7世紀〕さえもはるかに突きぬけさせたあげくに,「西暦の今年:2010年は紀元2670年なり」(2024年ならば「皇紀2684年」)などと数えるのは,これがもしも暴論でなければ,「歴史観の不在(⇒無定在)」を原因に発生させた〈自身の無知〉の全面公開になる。
もとより,絵空事の観念世界に飛揚しているという意識などさらさらないまま,そのような古代宗教の祭政的な精神次元に留まった心性が問題であた。
もっとも,どの国の神話においても,自国の歴史を物語的には長大・偉大・尊大なものとして,おおげさに・大仰に誇張して語ることを好む。おまけに,その自尊的な精神構造は,無限大的に広がっていく必然性をも有していた。しかし,まだそれだけならまだいい。
往々にしてその種の神話をいただく国家にかぎって,周辺の隣国・他国を見下し,侵略・支配することを当然視する夜郎自大の国家精神を,当然のごとく抱懐してきている。こうした神話的な国家体制を有する国々は,歴史的に回顧するに,いつも国際関係のなかに紛争・対立をもたらしやすい。この事実に関しては,島薗 進も他所で指摘するところであった。
以上の指摘は,2022年2月24日に「ロシアのプーチン」が始めた「ウクライナ侵略戦争」をめぐり,彼(プーチン)がロシア正教と密着した宗教観念上の立場をもって,隣国を侵略したあげくその土地に生きて暮らす人びとの生命・財産など殺戮・略奪することを,なんとも思っていないその異常・異様などといった形容などでは表現しつくせない,
つまり「自分個人の宗教がかった観念」のなかでなれば,完璧にできあがっていたらしい「絶対優越的な世界価値観」が,いったいどこまで暴走するのかといったら,この旧ロシア大帝国信奉者である人間自身が死ぬまでだとしかいいようがなかった。
そうしたプーチンの自国に関した妄想的な誇大の政治思想が,単に彼自身の精神界のなかだけの出来事ならば,まだしも,現に世界の政治経済に多大な悪影響をもたらしているからには,その悪魔的な狂気の宗教的な源泉には警戒を怠らずに注視している必要があった。
ロシア大帝国「政治思想」あれば,大日本帝国流の「東亜支配思想」もあった。しかも日本の場合はその政治経済思想の根底にで,自国の観念世界を推進させるための機動力となる宗教精神として「明治時代に創られた〈神州〉思想」が注入されていたのだから,
おまけにその大きな尻尾を21世紀の現在にあってもなお,自国の民たちを統制・支配するための政治的な道具だて,いいかえれば,「演出するための特権階級的な一族集団を,天皇家として存続させている事実」が軽視されていい理由がない。
※-2 日本国家神道史
1) 国家神道史の時代区分
国家神道に関する有名な研究者に村上重良がいる。村上重良『国家神道』岩波書店,1970年は,国家神道の歩みをつぎのように時代区分していた。
この4つの時期は,世界史や日本史の時代区分を参照し,政治体制や神社制度や国体思想の影響力の変化にかかわる諸事象を踏まえているせいか,およそ妥当なように受けとめられる。しかし,各時期の特徴づけには理解しにくいところがあった。
そのひとつは「国家神道と神社神道と皇室神道の相互関係」,ふたつに「国家神道が国民に強制した」とだけ把握されていて,「皇室神道や国体の教義」が国民生活とどのようにかかわっていたのか明確にされておらず,前段の時代区分を分かりにくくしている(島薗,138-139頁)。
村上重良による国家神道史に関する時代区分を,以上のように吟味・批判した島薗は,自身による時代区分を以下のように提案する。
第1期「形成期」〔1868年~1890年〕(村上と同じ)
第2期「確立期」〔1890年ころ~1920年ころ〕
第3期「浸透期」〔1920年ころ~1931年ころ〕
第4期「ファシズム期」〔1931年~1945年〕
島薗はなかでも,第2期を「確立期」と呼ぶ理由を,つぎのように説明している。
この時期に(1)聖なる天皇と皇室との崇敬に関わる儀礼システムが確立していくこと,(2)神話的表象に基づく国体思想が生活空間に根づくような形に整えられ,その教育・普及システムが確立していくこと,(3)神職の養成システムと神職の連携組織が確立し,国家神道の有力な構成要素である神社神道がその内実を固めていくことに注目したい(143-144頁)。
2) 思想史的な視座の重要性
島薗は,国家神道が国民自身の思想と実践のなかに組みこまれていく過程,いわば国民の心とからだの一部になっていき,これがさらに,国民各層から湧きおこるような精神基盤にまで作りあげられていく過程に注目する。だからそのさい,国家神道の素描は,宗教や精神生活の側面からも生活形式の歴史を叙述することが要求されるとも強調する(144-145頁)。
いいかえれば,「宗教や思想の歴史を考えるには,なによりも観念や実践の流布・習得について調べてみなければならない。国家神道の歴史において学校や祝祭日システムやメディアが重要なのは,それこそが天皇崇敬やそれに関わる神道的な観念と実践の流布・習得において決定的に重要な役割を果たしたからだ。『国体の教義』と『皇室祭祀』や『神社神道』を結びつけたのは,教育勅語や祝祭日システムやメディアだった」
「そこでは皇室祭祀や神社神道と国体論を結びつけた天皇崇敬を鼓吹する行為が,長期にわたり日常的に行われていたのだった」(94-95頁)。
島薗がとりわけ強調したのは,こういう点であった。
「日本の国家神道の歴史は,このような近代史の逆説をよく例示する」ことは,「国民国家の時代には国家的共同性への馴致がめざされるが,民衆自身の思想信条は為政者や知識階級の思惑を超えて歴史を動かす大きな要因となる。また,啓蒙主義的な世俗主義的教育が進む近代だが,にもかかわらず民衆の宗教性は社会が向かう方向性を左右する力をもつことが少なくない」(181頁)点に表現されてきた。
本ブログ筆者のばあい,経営学の原理的な研究の方向性を《思想史》から立ち入り,観察する方法論を打ちだして研究を重ねてきた。つまり「経営思想史の構想」を構築しつつ,日本の経営学説・理論や経営学者の主張を検討してきた。
明治以来発展してきた「翻訳の社会科学」の欠点・弱みは,自国の企業発展史あるいは経営特性論とは距離を大きくとりすぎ,純粋理論面での訓詁学・解釈学として営為するだけの期間が,非常に長く続いてきたことであった。
日本における明治以来の国家神道形成史に立ちむかうための研究方法も,欧米の学問・理論を杓子定規的に適用するよりも,この国じたいに特有の宗教事情に合致した視座を形成することが要請されている。とすれば,島薗『国家神道と日本人』の接近方法は,日本の神道界事情により現実的に迫りえた著述をなしえていた。
※-3 東京都の真ん中に神殿を構え,年中祭祀をする「神聖だと決めてきた」夫婦を住まわせている日本国のアイロニー
-国家・国民の象徴が自家の皇室神道行事に明け暮れていて,
日本は大丈夫か。古代にもやっていなかった
現代におけるまさに倒錯・幻想の宗教行為-
明治維新を画期に新生させてきたはずの日本大帝国は,1945年の敗戦によって壊滅したかのようにみえた。しかし,戦後に日本の支配者となったGHQ総司令官マッカーサーは,「天皇制を維持して天皇の権威を利用することで占領統治を効果的に遂行しようとした」(島薗,187頁)。
GHQの占領政策は「国家神道への対処」さいして「天皇家と皇室祭祀にある種の厚遇を与え,神道指令〔1945(20)年12月15日〕によって生ずる衝撃や不満を緩和しようとした」(188頁。〔 〕内補足は筆者)。
GHQの関係担当官たちは「皇室祭祀が残ったことにより国家神道がいまも生きていることに対して無自覚であっ」た。「日本人は国家神道の思想や心情の影響をふだんに受ける位置にいまもいる」
敗戦後史における国家神道の生き残り具合に関して,そう観察・発言していた島薗 進は,さらに「私の主張したいこと」をつぎのように記述していた。
戦没者の追悼をめぐる問題や国家と宗教行事や祭祀の関わりの問題,ひいては諸宗教集団の活動の自由や公益性の問題を考えるとき,国家神道の現状についての正確な認識が欠かせない。また,国際社会での政教関係問題をめぐる相互理解の深まりにも貢献するはずだ。信教の自由について,西方キリスト教を基準としがちな思考枠組の偏りを見直す一助にもなろう」(189頁)。
補注)この島薗 進の意見(指摘)は意味深長であった。「信教の自由」を欧米キリスト教を基準とするだけでなく,日本の国家神道の含意を,その問題次元において思考を深めるための基準(尺度?のひとつ)として導入したらよい,と表現したごとき「発想」は,一歩間違えれば「敗戦前に戻りたい」かのごとき,つまり,例の安倍晋三君流の口調を真似ていえば「戦後レジームの脱却」という「標語ならぬ〈つぶやき〉」の渦巻きのなかに,突如として吸引されてしまうおそれがないとはいえない。
西欧の基準が絶対の尺度になりえない事実と同様に,日本の基準,まさに島薗 進が大上段から論及している「国家神道」,それも明治以降の人為的なこの創造(想像)物の評価・意義づけには,よほど慎重であらねばなるまい。
従来における日本の神道全般から突如,奇形児のごとく,つまり大日本帝国思想の誇大妄想観念みずからが,想像妊娠したあげく,結果としては帝国臣民たちを「1945年の敗戦」という塗炭の苦境にまで追いつめた「国家精神の基盤形成」となっていたはずの,この「国家神道」の本質議論にさいしてなのだから,軽率な口調になりかねない発言は要注意であってよかった。
1) 日常的・季節的な皇室祭祀
東京都の中心に位置する皇居のなかには,宮中三殿と呼ばれる賢所(かしこどころ)・皇霊殿・神殿がある。ふつうの神社と異なり鳥居がない。皇居の宮中三殿は,けっして「先祖を祀らないはずの〈神社〉」ではなく,堂々と「先祖を祀っている」神社であるから,宗教施設そのものである。それは,8200平方メートルもの敷地を占める大きな神道礼拝施設と理解するのが自然である。
☆-1「賢所」 天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨のさい,みずからの分身として授けた鏡が神体として据えられている。本来の鏡は11代垂仁天皇のときに伊勢神宮に移されたとされ,宮中には「うつし」が置かれている。
☆-2「皇霊殿」 歴代の天皇・皇后・皇妃・皇親の2200あまりの霊が祀られている。
☆-3「神 殿」 神産日神(かみむすびのかみ),高御産日神(たかみむすびのかみ)など『古語拾遺』に記されている八神と天神地祇が祀られている。
☆-4「神嘉殿」 新嘗祭がおこなわれる祭場である。
天皇夫婦は,天皇自身を主役にするこのような皇室祭祀に明け暮れる毎年・毎月・毎日を過ごしている。
「年中行事にあたる祭祀には大祭・小祭があり,加えて節折(よおり)大祓(おおはらえ)などの神事があり,年20回を超える」
「小祭では天皇は拝礼をおこなうだけだが,大祭では天皇が祭祀を主宰する」(190-191頁)。
先述にその名称だけは出ていたが,つぎのように皇室祭祀の年中行事がある。
1月3日 原始祭 1月7日 昭和天皇祭
春分の日 春季皇霊祭・春季神殿祭 4月3日 神武天皇祭
秋分の日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 10月17日 神嘗祭
11月23日 新嘗祭
これらの行事は,天皇家の私的神事であるという〈建前〉である。ところが,大祭のうちいくつかは内閣総理大臣や国務大臣,国会議員,最高裁判事,宮内庁職員に案内状が出されており,これら国政の責任者や高級官僚らは,出席すると天皇とともに拝礼をおこなう。明らかに国家的な行事として神道行事がおこなわれている(以上,190-191頁)。
2) 天皇家のための日本国なのか?
以上までの記述につづけてさらに,島薗『国家神道と日本人』から引照をつづけたいが,すでにだいぶ論及してきたので,このへんで終わりにすることにし,以下,最後の議論をしておきたい。
--はたして,日本国に暮らしている国民・市民・住民たちは,日本国憲法において自分たちの「国」「家」の〈象徴〉とされている「生物=天皇」の私的神事に,この国の首相はじめ政治家などが参加し,ともに拝礼するという儀式を,どのように受けとめ,観察し,評価しているのか?
民主主義の憲法だとされる日本国憲法であるが,GHQは,日本の敗戦処理のためではなく,アメリカの戦後政策のために「日本の天皇・天皇制をそのまま残し」ておいた。その結果として21世紀の日本は,いまだに「半国家=半被占領国」のままに留めおかれている。
それでいて同時にまた,明治維新以降「創られてきた」「天皇は天照大神・神武天皇の子孫」という完全なる神話的世界の物語が,その憲法のなかに不自然に混入されたままの状態を,いまもなお維持・残存させている。
天皇家の私事行為である宮中神事に,内閣総理大臣などがうやうやしく参加する〈政治的な構図:ある種の古代再生版的な上下関係〉が,21世紀のいまにも無様に生き延びている。
マッカーサーによる日本占領統治〔これはもちろんアメリカ本国の意向であったけれども〕によって,かろうじて存続できた天皇・天皇制は,日本という国における〈民主主義〉の成長・発展にとって,いまでは軛である以上に,民主主義の状態をいつまでも不全・未熟のままに止めおく役目を果たしつづけている。
3) このごろにおけるこの国の沈滞ぶり
最近における「日本における民主主義の状態」をみなおしてみればいいのである。バー権裏金問題で汲々としてきた「公明・自民」党は腐敗・堕落ぶりは,天下一品の様相をみせてきた。ところが,これを抜本から是正させうる,軌道修正させるような政治力は,実は皇室側にはなにもないし,ありうるわけすらなかった。事実としては両者間は完全に無関係の間柄にある。
それとこれとはまったく別問題であって,しかしまた,皇室があってこそのこの国の政治・経済・社会・文化・伝統だというふうに,「観念的な決めつけを燃料にして走ってもいるこの国」であった。
さて最後に,本日(2024年5月10日)の新聞朝刊から引用するが,つぎの経済事象に関する報道が『毎日新聞』の1面に出ていた。この種の「労働経済の賃金問題」に対して「皇室」関係筋がなにか関与できる要素がありうるか?
戦前の皇室のありようとは完全に縁が薄くなった現代政治のなかでは,皇族一家たちに対して向ける,そのような発想じたいが完全なる時代錯誤となった。
とはいえ,時代は確かに大きく変わってきたけれども,その過程のなかで変わらぬように映るなにかも,また別様に確かに実在する。この付近の議論を本格的に論及していたのが,島薗 進が執筆する題材であった。
なお「プーチンによるウクライナ侵略戦争」が始められたのは2022年2月24日であった事実は,前段で言及してあった。この日本の労働者・生活者たちにとっての「実質賃金の減少率」は,その世界情勢の急変と深い関連をもっていた。
問題なのはとりあえず,皇居に暮らすひとびと一族のあり方などではなくて,国会で仕事をする人びとの,それも最高責任者の働きぶりであった。
その肝心の人物であった岸田文雄の場合はただし,自分がいかに長く首相で居られるかにしか関心のなく,逆にいうとその思いだけが,彼の人生にとっての最大の生きる事由であった。
それゆえ,今後における日本はさらにしばらく,この首相のもと,あの「悪▲のような公明自民党政権」の悪政に苦しめられていく路線を運命づけられている。
さて,つぎの画像資料に加工・合成してみたが,本日の『毎日新聞』朝刊1面・2面を充てて報道された「実質賃金の低下傾向」問題は,一般庶民の財布を直撃する悪効果しかもたらしていない。
いつも指摘することになるが,「衰退途上国」であった日本はすでに「転落後進国」と呼ばれておかしくないほど,弱体国家に向けて落ちぼれつつある。
岸田文雄という「いまの首相」(しかも「世襲3代目の政治屋」!)は,アベノポリティックスやアベノミクスの失政を軌道修正させる「経済指導力」はなかった。
このあと誰が首相となって,この国を救える為政をできるのか? 暗い気分にならない人はいないはずである。
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