日本の大学が抱えている病理(2)
※-1「本稿(2)」の前編「本稿(1)」
「本稿(2)」は「本稿(1)」(昨日の2024年7月3日)から連続した記述である。できれば,(1)を読んでから,こちら(2)に戻って読んでくれると好都合である。
さて,問題の焦点は,この記述が最初になされた2020年2月初旬においてはすでに,日本の大学が固着的に抱えていた病理,すなわち,為政者が高等教育の真価が理解できずに,とくに高等教育の中味をいじくりまわし撹乱だけしてきた惨状,それもとりわけ「文系不要論」を唱えるといった混迷と錯誤のために発生していた,もろもろの悪影響に向けられる。
2020年といえば,新型コロナウイルスという疫病が新春からはやりだした初年であった。日本の経済社会が実質,半ばマヒ状態を強いられる事態になってしまい,2020東京オリンピックは1年延期で2021年に開催されるなど,国家としての基本活動が広範囲に制約されるというまずい影響が生じていた。
教育体制の面では,なかでも,大学・大学生の活動・生活の場合,大きく制限される顛末になった。遠隔授業(オンライン授業)に基本的には移行せざるをえない教育環境になってしまった。しかし,この推移は教育体制のあり方に新しい視点が本格的にもちこまれる契機にもなったことは,記憶に留めておくべき価値がある。
そうした2020年代にいきなり発生した教育体制を根幹からみなおさせたコロナ禍の影響は,もちろん日本の教育問題に多大な変質をもたらす要因とはなったけれでも,それとは別に,もともと,日本の大学(高等教育)のあり方に問われている基本的な課題があった。
それは,文教政策の貧困化・弱体化をよりはなはだしくさせた安倍晋三政権(2012年12月26-2020年9月16日)においてだが,いよいよ大学方面においては顕著に劣化した研究・教育体制の問題として,あらためて十二分に解明すべき論点を提示した。
というしだいで,連続ものの本稿の要点は,とりあえず以下の3点に整理できることを,今回も再度断わっておきたい。
要点:1 高等教育機関における研究や教育を「教育は百年の大計」という見地をもって観察できていなかった「実業人の浮薄な意見」を「真に受けて摂り入れた」失策
要点:2 「急がば回れ」が教育の原点であり,最良の方法であるが,その逆をいく実業人の経営コンサル的な目先だけの助言によって,大学の教育現場が混乱させられてきた「錯綜」
要点:3 さすがに,教育現場に直接「選択と集中」戦略をもちこむ愚かさに気づいたらしいが,その間において大学側の受けてきた負的打撃がひどく,その打撃(悪影響)が「多大」であった
※-2「国を挙げ博士育成を 2016年ノーベル賞の大隅氏に聞く-企業の採用機運高まる 大学も意識改革必要」『日本経済新聞』2020年2月3日朝刊9面「科学技術」
大学院の博士課程に進む学生が減り,研究を担う人材の不足が懸念されている。現状を放置すれば,企業も含めた日本の研究力の一段の低下につながりかねない。2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞した東京工業大学の大隅良典栄誉教授は日本経済新聞の取材で「日本にどれぐらい博士が要るのかという議論が必要だ」との認識を示し,国を挙げて博士を育成すべきだと強調した。
【解説】 この画像については「日本」(21世紀にはいって人口が減少しだした,⇒「韓国」(2020年から人口の減少が始まった),⇒「中国」(2018年から人口の減少が始まっていた)というような,この3国においては出生率が減少している傾向も踏まえたうえで,大学に進学する対象(母集団)となる「若年齢層の人口趨勢=衰退」をも,併せて考慮してみる余地がある。
ここではつぎの関連する統計も参照してみたい。前段に挙げてみた『日本経済新聞』の記事「図表」と一定の相関性がみてとれることは,当然であり特別な説明は要らない。
しかし,それにしても日本の博士号取得者数そのものが減少している点は,ここではとくに韓国に比較してきわだっている。中国は人口じたいが日本の10倍以上あるので,100万人当たりという比率数ではなく,その絶対数で観ると韓国と同じに観ておいたほうが妥当である。
補注)21世紀にはいってからはすでに,学歴ロンダリングという高等教育現象や高学歴プアーなる労働経済問題がめだちはじめていた。
どういうことか?
欧米を中心に,海外の主要国は手厚い経済的支援などを通じて博士を積極的に育成している。日本は支援が手薄で授業料などの負担が重く,博士課程進学が敬遠される一因になっている。
大隅氏は「日本の社会にどれぐらい博士が要るのかという議論がほとんどない」と語り,国家的な課題として博士を育成すべきだとの考えを示した。同時に「企業が『博士を採用する』というメッセージ(を出すこと)はとても大事だ」とも語った。
「視野が狭い」「柔軟性がない」などのイメージが先行し,日本企業はこれまで博士の採用に消極的だった。文部科学省科学技術・学術政策研究所によると,米国では博士号をもつ研究者らの4割は企業に所属するが,日本では約14%にとどまる。
ただ,こうした状況は変わりつつあるという。大隅氏が理事長を務める「大隅基礎科学創成財団」が有力企業11社に聞いたところ,8社が「博士の採用を増やしたい」と答えた。年功序列ではなく実力主義を重視する企業が増え,高い専門性をもつ博士の価値が見直されていることが背景だ。
補注)この調査の結果,有力企業では「博士の採用を増やしたい」という回答がえられたという点については,そのような意見もむろんあるのだという程度に解釈しておけばよい。
調査された企業は有力企業であるが,たった11社がその対象であり,そのうち8社が答えていたという点をもって,これを「有力」な意見(反応)だと受けとってみる考え方は,やや強引さを感じさせる。
この調査方法(その対象)でもって必ずしも,統計的に十分に有意(有効・有用)であるとみなしていい万全の答えがえられるとはいえない。いずれにせよ,統計調査法の理解からすれば若干,疑問が残る点を示しておく。
〔記事に戻る→〕 技術の進歩が加速し,国際競争も激しくなるなか,多くの企業がイノベーションを生み出す人材を強く求めている。大隅氏は「実力のある博士がいないともたないという意識は企業にもある」と指摘した。〔同時に〕一方で「大学の意識も変えないといけない」との見方も示した。
財団が基礎生物学を中心とする全国の大学の教授ら 104人に聞いたところ,「企業は博士を積極的に採用しない」という認識をもつ回答者が5割を超えた。企業の意識の変化に大学が追いついていない可能性がある。大学も教育内容の充実などを通じ,企業でも活躍できる高度な人材を育てる体制を整える必要がある。
この調査では6割の研究者が「(博士課程の手前の)修士課程の学生の研究力が低下している」と回答した。研究そのものが目的ではなく,就職に優位になるとみこんで修士課程に進む学生も多い。大隅氏は「修士課程の教育が形骸化している」との課題も指摘した。
補注)とくに理系学部の場合,それもまともな一流大学になればなるほど,大学院修士課程まで進学する学生数の比率が高いことは当然の事情になっている。「学部⇒修士」の連続就学が自然にもなっており,ともかく修士までいってから就職と経路になっている。
文部科学省がまとめている『学士課程修了者の進学率の推移(分野別)』https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/2018/12/__icsFiles/afieldfile/2018/12/03/181205_012.pdf という統計的に解説をした文書があるが,これは全大学を平均化した数値となっている。
多少は「一流と非一流大学の相違」が分かりそうな内容もないわけではないが,基本的にその点は未詳の資料となっている。なかでも,修士課程から博士課程に進学する院生がだいたい,過去20年近く減少しつづけてきた事実は(前段に引用した図表をあらためて参照したい),異常と受けとめたうえで観察すべき事態ではないのか?
2024年7月現在により近い関連の統計資料を紹介しておく。『日本経済新聞』記事から引用する。
〔記事に戻る→〕 博士課程までを見据えて真剣に研究に取り組む学生が増えれば大学の研究力の向上につながり,企業に就職する研究者の質も高くなると期待される。そのためには,学生自身の意欲を引き出すことが欠かせない。
国立大学向けの運営費交付金の減少などを受け,大学の多くの研究者は研究費やポストの獲得に追われている。大隅氏は「(学生が)『ああいうふうになりたい』と思えないことが博士課程にいかない最大の理由かもしれない」と述べ,研究環境の改善などにより閉塞感を取り除く必要があるとも強調した。(引用終わり)
さて,日本の経済社会はすでに「失われた10年」を3度も反復せざるをえず(2024年という現在となればすでにその4度目に突入か?),とりわけ第2次安倍政権による「例の経済政策(アベノミクスというアホノミクス・ウソノミクス・ダメノミクスのデタラメ三昧)」のアベノリスクによって,産業経済・企業経営そのものの凋落に拍車がかけられるほかない情勢にまでなっていた。
そのなかで,目先だけの「国家経済の威勢・隆盛」をとりもどしたいがためだったのか,それにしても,大学および大学院(高等教育機関)に対してだが,なんとひどいことに『文系学部廃止論』まで飛び出てきた。
当時のアベ政権の中枢機能は「教育は百年の大計」という大理念とはまったく無縁かつ無理解である「連中」介在のために,高等教育体制が崩壊状態を余儀なくされてきた。「彼ら」はこの国の教育基盤の「根幹を締め上げてしまい,文化的には窒息状態にさせる」ことにしかなりえない文教路線を選び,突きすすもうとしてきた。
いうなれば,その彼らによって演じられてきた「日本の高等教育」のとくに大学院るその姿は愚の骨頂であった。というよりは「アベ政権そのものに特有であった特性そのもの」が「愚」でありえなかったごとき,いいかえれば,アベの弁舌風に,つまり単細胞的に “ひと文字” (?)で表現するとしたら「愚」でしかありえなった。
※-3「〈考える広場〉文系なんか要らない?」『東京新聞』2020年1月13日,https://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2020011302000168.html
文系,とくに人文社会学系の研究者たちが危機感を募らせている。文部科学省が国立大に同系学部の廃止や転換などの改革に努めるよう求めてから5年〔2020年からのこの5年ということだが〕。いま,大学はどうなっているのか,どこへ向かうべきか。
『国立大の組織改革』 文部科学省は2015年6月,国立大法人の第3期中期目標・中期計画(2016~2021年度)の策定に向けて,「国立大学法人等の組織および業務全般の見直しについて」という通知を各法人に送った。
国立大に求められている社会的役割として,世界における日本の競争力強化や科学技術の革新,グローバル人材の育成などを指摘。人文社会科学系と教員養成系の学部・大学院については「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう」求めている。
1) 大学は幅広い学びを-前青山学院大学長・三木義一さん
※ 人物紹介 ※ 「みき・よしかず」は1950年東京都生まれ,専門は税法。2010年から青山学院大法学部教授,2015年12月から2019 年12月まで同大学長。近著は『税のタブー』集英社インターナショナル新書。
政府は国立大に文系学部を縮小させるよう促しているようです。背景には,日本の大学が世界のランキングで順位を落としていることがあります。上位は,米マサチューセッツ工科大など理工系が多いです。
しかしそれは目先の利益にとらわれた議論であり,大きな間違いといわざるをえません。国公立が文系学部を縮小するなら,私立にはチャンスですね(笑い)。
補注)とりあえず,2014⇒2015年と2019年おける世界大学ランキングをそれぞれ紹介しておく。
なぜなら,理系の研究者にとっても,文学をはじめとする幅広い学びや教養が大切だからです。研究者たちは,新しい技術をいち早く世に出そうと,1分1秒を争っています。そういう競争の世界で研究にゆきづまったとき,どうするか。ほかの世界を観ることがとても大きな意味をもちます。違った発想が生まれるからです。
近年,日本では多くのノーベル賞受賞者が出ています。彼らが大学に通っていた数十年前には,教養教育がありました。それは,かつての教育が正しかったということなのではないでしょうか。
文系は役に立たないとよくいわれますが,いま,無駄にみえるものがつぎの時代を切り開くこともあります。たとえば立命館大の白川 静名誉教授。ひたすら古代文字を研究し,当初は半ばばかにされていたそうですが,のちに漢字教育などに広く活用される白川フォントを生み出すなど偉大な功績を生みました。
大学時代というのは,思考力形成の時期です。私は大学1年のとき,本を百冊読むことを実践しました。本を読んで発想を広げること,自分なりに問題意識をもって取り組むことをすべきです。それが役に立つかどうかは気にしなくていい。
もちろん,文系学部も変わる必要はあります。しばしば,隔絶されたままの世界で研究をしている場合がみうけられるのは事実です。趣味ではなく学問である以上,時代の変化をみることも必要。新しいものが社会に影響を与えているなら,それを反映させた研究をすべきでしょう。人間は環境の生き物なのですから。
最近では,大学で使えるお金がどんどん削られています。しかしそれでは,優秀な人材が生まれるとは思えません。異なる分野の学問が影響を与えあい,研究されてこそ,新しいものが生まれる。大学はそのような多様性を確保する場であるべきなのです。
だから,文系の大学を卒業しても,ろくに勉強もしないまま名誉卒業させてもらったこの国の首相(もちろん安倍晋三)は,いま参照している『東京新聞』のなかでは,つぎのように揶揄,嘲笑されていた。
まあ「こんな人」が日本国総理大臣であったのだから・・・。本当は「笑い話」になっていればまだ幸いだったが,この人のせいでいまの日本は,ホラー物語になりつつある。
今日,2024年7月4日のドル円レートは161円台ということで,日本の円の価値はメチャクチャに下降した。民主党政権の時は円高で75円台の時があったが……。
※-3「首相答弁でツイッター大喜利状態『募る』と『募集』の違いをまじめに考えた」『東京新聞』2020年1月30日 朝刊
募っていたが,募集ではなかった? 「桜を見る会」への参加を安倍晋三首相の事務所が呼びかけたことに関し,首相の国会答弁が炎上している。ざわつく議場の様子が拡散され,「お菓子を食べたが,オヤツではな~い」といったツイートで大喜利状態に。
「募る」と「募集する」って,本当に違うのか?
a) 議場に失笑 ハッシュタグ盛況
問題の答弁は〔2020年1月〕28日の衆院予算委で飛び出した。宮本 徹議員(共産党)が,安倍政権下で桜を見る会の参加者数が急増した理由を追及。首相の地元事務所が友人や知人は申込書をコピーして使うよう呼びかけていたと指摘し,「幅広く募っている,募集していることをいつからしっていたのか」と質問した。
安倍首相が「私は幅広く募っているという認識でした。募集しているという認識ではなかった」と答えると,議場は失笑に包まれた。宮本氏は苦笑しながら「日本語を48年使っているが,募るというのは募集するというのと同じ。募集の募は募るっていう字なんですよ」と続けた。
このやりとりが報じられると,ツイッターには「#募ってはいるが募集はしていない」というハッシュタグが出現。「答えてはいるが,答弁はしてない」「マズい部分隠したが,改ざんではない」といった投稿が相次いでいる。
補注)率直な感想でいうと,まるで本当に「▲シカそのもの」であった人物が,日本国の総理大臣であったからこの国が傾くのは当然であった。
b) 意味は同じ,永田町用語なのか? 言葉じたいの意味はどうなのか。広辞苑で「募る」をひいてみると,「ますます激しくなる」などと並び,「広く求め集める。募集する」とあった。「募集」をみると,こちらは「つのり,あつめること」としか書かれていない。
椙山女学園大の加藤主税名誉教授(言語学)は「募るも募集も意味は同じ」と説明。そのうえで「あえて直感的にいうと,募集する方が堅く,書類提出や意思表明などが必要な印象があり,募るは自由に参加できる感じ。その意味では,桜を見る会の実態は『募る』で合っているのでは」と解説する。
首相はいつもどちらで答弁しているのか。現在公開されている国会会議録をみるかぎり,桜を見る会の関連では「募る」を使うことが多いようだ。もしかして永田町用語として使い分けがあるのかと,政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏に聞くと,「そんなことはありません」と断言された。
「そもそもこの問題はいろいろなことがいいかげん。理屈になっていないことを理屈でいい逃れしようとして無理が生じ,こういうことになる」
c) 迷言頻発しても開きなおり 首相は過去の国会でも,自身を行政府の長というべきところを「立法府の長」といって会議録の修正を招いたり,「云々」を「でんでん」と読み間違えたりしてきた。報道陣から「今年の漢字」を1字で表わすように問われ,「責任」と字余りで答えたこともある。
今回の答弁をみて「安倍さん,馬から落ちて落馬したね。それじゃ危険が危ないよ」とツイートしたのは落語家の立川談四楼氏。「呆れかえった。発言後もえらいことをいってしまったという感じじゃないし。なにをいっても押し切る癖がついている」と話す。
補注)というか,安倍晋三自身の意識界によれば,もともとその程度の日本語力しかもちあわせないゆえ,くわえては,単なる破廉恥あるいは独特の強引さとが理性・知性以前に働き,いうなれば,次元の異なった単純素朴な頑迷さと無知かげんが,ともかくそのようなアベの発言を発出させていた。
〔記事に戻る→〕 政治家の「迷言」は頻発し,大喜利はしょっちゅう繰り広げられている。無意識の発言がすばらしいギャグになることもあるとした上で,談四楼氏は嘆く。「それにしても一国の総理が意味の取り違い,理解力や読解力不足…。これじゃあネタにもならない」(引用終わり)
安倍晋三というこの国の最高指導者が以上のごとき始末であったから,大学院生の現状問題をとりあげて議論する以前に,重大な問題が国会のなかに発見されたことになる。ともかく,この総理大臣のもとで出てきたのが「文系学部不要論」であった。
まさか,このアベ首相は,自分が成蹊大学法学部政治学科でろくに勉強もしなかった「過去の体験」を棚上げしておき,その不要論を誰かにいわせていたか?
たとえば,ポツダム宣言(1945年7月26日)と原爆投下(8月6日と9日)のそれぞれの日にちとの時系列さえまともに把握しないまま,原爆投下のあとにポツダム宣言が宣布さえれたとかいってのけた安倍晋三君,単純ミスとは思えない間違いを平然と口にできていた。
それは「世襲3代目の政治屋」の実体というか,正真正銘の本物の中味であったのだから,世も末という印象すら抱かざるをえなかった。
それにしても,いまこのようにおこなっている議論の次元にまでは,とても到達できない〈知識水準〉しかもちあわせなかったこの御仁が,日本という国を操縦してきた。彼においては危険がいっぱいであったし,実際にもそうであったとしかいいようがなかった。この国は,彼が他界するまではその状態に置かれていた。
〔ここで※-2の記事に再度に戻って,こちら※-3の内容に充てる構成になるでの,つぎの連番は 2) と振られている〕
2) AI化,理系こそ危機-中央大理工学部教授・竹内 健さん
※ 人物紹介 ※ 「たけうち・けん」は1967年東京都生まれ,博士(工学)。東京大大学院工学系研究科修士課程修了後,東芝に入社,フラッシュメモリーの開発を担当。2007年東京大准教授,2012年から現職。
企業で半導体の研究・開発をしていた2001年,米スタンフォード大に留学して経営学修士(MBA)を取得しました。そのころ日本の半導体業界は,国際競争のなかで傾きはじめていました。
技術だけでは勝てないのではないか。そんな思いもあって,専門の技術関係ではなく,MBAを選びました。当時としては珍しいケースでした。
MBAのコースでは経済,財務などのほか,心理学も学びました。組織内の人間関係や運営に関する実践的な授業もありました。文系の人には普通かもしれませんが,理系の私には新鮮でした。その経験はいま,役立っていると思います。
技術者なら優れた技術を開発するのは当たりまえで,問題はその先です。中小企業やベンチャー企業が,銀行やベンチャーキャピタルから資金調達する場合を考えてみます。金融関係者は技術の専門家ではないので,技術者には彼らに分かるよう説明し,説得する力,いわば「文系力」が必要になります。
大学の教員も中小企業の経営者に似ています。私の仕事の大半はマーケティングや営業です。学生に自分の研究室に来てもらうため,求人・採用のような仕事もあります。人,モノ,カネを集める。それが研究者の仕事です。
一方で,大学で重要なのは原理原則の学問だと考えています。理系でいえば,いまは人工知能(AI)がはやっていますが,ブームはいつか終わる。大事なのはAIの基礎になっている線形代数という分野を学ぶことです。
文系でも,長く続いている学部や学科は残るでしょう。たとえば哲学や文学,経済学などです。理系でも文系でも普遍的な学問は残るはずです。危ういのは,流行に乗って新設された学部・学科です。
もともと学問に理系・文系の区別はなく,便宜上,分けられたものです。ところがいまは,高校の段階で社会や理科が選択制になっています。大学の専攻も細分化しています。狭い分野のことしかできない人が育成されているように感じます。
補注)本記述の前編「本稿(1)」(昨日 2024年7月3日)でも指摘したが,丸山真男『日本の思想』岩波書店:新書,1961年が,日本の学問・科学について指摘したのは,明治以来における「欧米理論の受容・摂取のあり方」が “タコツボ型” になっていて,本来, “ササラ型” であった諸学問・諸科学の基盤・根柢を忘れていた問題性であった。
ここではつぎの論稿を紹介しておきたい。この文中には “タコツボ型” と “ササラ型” の分類と関連に関した考察がなされていた。ノーベル賞受賞者一覧に関したつぎの付表(時系列的な整理)もかかげていたので,参考にしておきたい。日本は文系のノーベル賞受賞がいなかった,つまり,大学・研究所関係からはその受賞者を輩出できていなかった。
〔記事に戻る→〕 技術は自動化の方向に進みます。技術者は,自分が開発した技術によって仕事を失う恐れもあります。AI化が進んだ社会で最後に人間に残されるのはなにか。案外,文系的な仕事かもしれない。理系の人の方が大変ではないかと思っています。
3) 現代的な教養教育に-経営共創基盤代表取締役CEO・冨山和彦
※ 人物紹介 ※ 「とやま・かずひこ」は1960年,和歌山県生まれ,2007年に経営共創基盤を設立,多くの企業の経営改革に携わり,大学では東京大,広島大などの顧問を務める。近著は『社長の条件』(共著)。
かつて「東大の大教室で5百人の学生にシェークスピアの講義をしてもなんの意味もない」といって,物議を醸したことがあります。誤解されましたが,シェークスピアもその研究者も否定するつもりはありません。日本的教養教育への異議申し立てとして,そう述べたのです。
補注)この冨山和彦が,本日の記述のなかではとくに注目されるべき「問題の人物」であった。冨山は「自分は誤解され」たといいわけしている。だが,この冨山が「日本の大学教育のあり方」に対して非常な悪影響を及ぼす結果を引き寄せたのであった。
冨山和彦は経営コンサルタントの立場から,大学運営のあり方に対して「実業人的である素朴な発想」を押しつけていた。その意味では日本の高等教育を無責任にも破壊した張本人の1人に挙げられる。
要は,いかにも自分はものしりであり,教育社会圏内の頑迷固陋を打ち破れる発想や能力があるかのように自己喧伝していた。しかし,その真価は現時点になってみれば,とても分かりやすく「お里がバレていた」
冨山和彦は結局,ごく短期間でもって,大学本来の目的に対しては逆効果となるほかなかった “最悪に進行していくほかなかったなりゆき” を,経営コンサルタント的な頭脳の単純応用によって生起させていた。
すなわち,企業の営利目的に則した思考方式:「選択と集中」〔というある意味では陳腐で使いふるされた〕戦略で教育界の諸問題に対応していけば,「大学の研究・教育」が一躍昂揚できるし,よりよい大学じたいに向けた発進も一気に実現できると,勘違いもひどく独りよがりに強く信じたうえで,実際にその短慮を押しつけた。
もっとも事後,その結果として生まれた「逆効果」のほうだけは,即座に発現したのだから,皮肉だと形容するどころか,たいへんな迷惑を日本の公教育制度全般に与えた。その迷惑度は教育界にとって甚大であった。
〔記事に戻る→〕 教養教育,英語でいうリベラルアーツとはなんでしょうか? アートとは技法。つまり,人間がよりよく生きていくための知の技法を教えることです。貴族の教育として1対1で教えたもの。シェークスピアを読み「君は善と悪をどう考える?」などと問答する。大教室でうんちくを披露するように教えるものではない。
補注)途中であるが,こういう関連する事項を挿入しておきたい。
冨山和彦は「大教室でうんちく〔蘊蓄〕を披露するように教えるものではない」と強調したけれども,つい最近(2023年)のNHKテレビの番組案内にも出ていたが,『マイケル・サンデルの白熱教室』というものがあった。下段の引用枠に解説する。
冨山和彦は,このサンデル教授の授業など簡単に蹴飛ばせるほど,タップリに自信を有していたように語っていたが,はたして,そこまでいいきってよかったかについては根本からの疑問があった。しかも,その答えは現在となってみれば一目瞭然になっていた。
〔記事に戻る→〕 それに本来のリベラルアーツが,大学への進学率が6割近いいまの時代にふさわしいか。いかに生き,死ぬかを考える哲学や文学などの人文科学に意味があることは否定しませんが,現代的なリベラルアーツを再定義,再構成すべきです。
一番転換が求められるのは文系学部です。研究機関としてはいままでどおりでいいですが,教育機関として改革が必要。文系の学生は大学の4年間をモラトリアム(猶予期間)と考えがち。これでは就職氷河期の不幸がまた起きる。生きていくためのスキルを教えるべきです。
補注)以上の説明のなかで,昨今の日本の大学における「文系の学生は大学の4年間をモラトリアム」というくだりは,本当に,現状における学生たちの勉学の状況を捕捉しての発言か? このように単純明快に切り捨てるごとき「日本の大学に対する認識」は,極端に短絡していた。
理系と文系の違い,男女の違いを残す問題点,一流大学とそれ以外の非一流大学の違いなどがあって,いまの日本の大学・大学生は千差万別(大学・学部の水準でみただけでもそうなるはず)である。「文系の学生=モラトリアムという確証」があって,そこまでいいきっているのか?
要は,そのようにまで断言できる確たる証拠・論拠・実例があっての発言か? もっとテイネイに説明すべきところを,自分が欲望的にいいたい点だけを針小棒大に,つまり大げさに大向こうが受けるようにだけ語っていた。
〔記事に戻る→〕 たとえば英語。まず語学としての英語を訓練する。それも多様なかたちで。グローバルに活躍しようという人が英語で論文を書いたり契約交渉をしたりする語学と,ローカルな場所に根付いて生きようという人が英語で来日外国人とコミュニケーションする語学は違うでしょう。
それを私はG型とL型と名付けました。この2つには上下はありません。むしろ,今後はLの方が大事です。そういう多様性に対応する教育をそれぞれの大学が用意すればいい。
補注)この「G型とL型」「この2つには上下はありません」という冨田和彦の発言からして,高度に欺瞞的であった。「上と下」以外の区分ではありえないはずの「G型とL型」について,わざわざそのように断わるところからして,完全にうさん臭かった。
冨山和彦がいうにともかくも,その「2つの型」はこういうものだとして説明されていた。
「G型」の「G」とは「グローバル」を指し,世界のトップクラスの大学と互角の教育水準,教育環境を提供してグローバル人材を育てていく大学がG型大学。さらには,スーパーグローバル大学をめざす大学の型である。
それに対して,L型の「L」は「ローカル」の意味であり,こちらは地域経済の発展に貢献する人材の育てるために,たとえば,簿記や工作機械の使い方など,仕事に直結する教育に取り組む大学というイメージである。ほかには,福沢諭吉が指摘しているように簿記会計も重要です。商売をするのなら,これが分かっていないとお金の出入りをコントロールできない。(引用終わり)
以上,読んでのとおりであった。G型の大学とL型の大学を出て世界や日本で「活躍する(できる)卒業生」と,「そうではない卒業生」との所得や地位に関して「上・下の序列や格差」が生まれないといったら,それこそ大ウソになる。
それでも,上・下の秩序関係ではなく左・右の横の役割分担などといっておけばよかったものを,なまじ “上下の違いはない” などと,とって付けたかのように,あえて断わったところからして,初めからうさん臭さかったのが,この冨山和彦の「大学改革」をめぐる「選択と集中」戦略的な提唱の本性であった。
冨山和彦による以上のごとき主張は,その本質じたいに照らしていえば,ごく短期間をもって成果(利益・効果)を期待しなければならない立場である。それゆえ,すなわち「教育は百年の大計」という見地に貢献しうるような中身はなかった。単に目先の,それも個別企業の営利目的にすぐ役立ちうる教育体制を創れといっていたに過ぎない。これだけのことであった。
しかも,G型大学のほうでは国際競争に伍していける人材を育成せよ,そして,このG型大学の勉学水準にまで追いつけない学生たちは,L型大学のほうでする勉強は,せいぜい「簿記や工作機械の使い方など,仕事に直結する教育に取り組む大学というイメージ」で考えていればよい,といっていた。
しかし,簿記の勉強ならば高校生でも学習しているし,工作機械の操作じたいならば,大学の教育とただちにじかに結びつける必要はない。大学の工学部機械工学科で工作機械の操作を実習科目でやるのとは,また意味づけも異なったそのいいぶんにもなる。
冨山和彦の議論は,大学教育をめぐる「前提と内容と目的」のあり方に関して,もともと,本格的な大学教育論など用意していなかった。中小企業の経営者が「いま必要なもの」がなにかと問われたときに答えたらいいような返事に終始している。その内容を「L型」の大学に要求する解答なのであった。いう前からその意図がみえみえの議論(問題提起?)であった。
〔ここで記事に戻る→〕 〔冨田和彦いわく〕これ〔自分の主張〕に対する反論として,「大学はすぐ役に立つものばかりを教えるべきではない。それはすぐに役に立たなくなる」という批判が来ました。では「すぐ役に立って,かつ,ずっと役に立つものはなんですか」と問いたい。語学はまさにそれ。実は簿記会計もプログラミングも言語ですから,一種の語学。これこそ普遍的で,最強のリベラルアーツなのです。
この冨山和彦の「リベラルアーツ」論は我流が過ぎて,率直にいってデタラメ論である。この論法(理屈)でいったら,ヤクザの使う符牒も魚河岸でやりとりされるそれも,リベラルアーツの一群を構成しうるかもしれない。
なお,リベラルアーツとは元来,人間を良い意味で束縛から解放するための知識や,生きるための力を身につけるための手法を指す,と説明されている。古代ギリシアで生まれたこの概念は,やがて古代ローマに受けつがれ,言語系3学(文法・論理・修辞)と数学系4学(算術・幾何・天文・音楽)で構成される自由7科(セブンリベラルアーツ)に定義されたという。
【参考画像資料】-桜美林大学が説明するリベラルアーツ-
このリベラルアーツがどうしたら,簿記の習得や工作機械の操作の問題に即時的につながりうるのか? 冨山和彦の発言は,リベラルアーツが狙い目標とする学問の立場にとってみれば,そのまた先に存在するはずのもっと遠大な眺望とは,完全に無縁にしかも自我流でなされていた。
つまりは,まさしくこのリベラルアーツ性に関した詮議とは完全に離れた立場から発言していた。換言すれば結局,無理解を基礎にした自分流の発言が目立っていた。
「G型とL型の大学類型・分別論」に対する批判が強く登場し,おまけにその批判を裏づける日本の大学事情が,より鮮明化している現状においてみれば,冨山和彦の議論は,いままですでに混迷させられ衰弱してきた日本の大学に対して,わざわざ要らぬ提案をし実行させたがゆえに,その混迷化と弱体化を招来させたのである。
以下にはさらに,つぎの4つの図表をかかげておく。冨山和彦の作成になるものである。冨山はG型の割合を2割に限っていたが,下の図表のなかには,そうはみえない部分(製図上の見栄えでの判断になるが)もあった。
イメージ図ではあっても,自他の理解に関する「差の介在」が示唆されている。一番単純で素朴な疑問は,L型の大学がはたして,大学の名に値しているのかと表現できる。
このなかには 「←これは成功しない」とも記入されているが,いまさら「当該問題」のいったい,なにを説明したつもりだったのかという疑念しかもてない。
経営コンサルタントの仕事は,結果が出るなりに分かりやすいのかもしれない。
だが,大学の研究・教育の任務は,それこそ最低は10年単位くらいで観察していかないとその成果がよく判明しないものが多い。また,それを数値で計測して表現しようにもそう簡単にはいかない性質をも有する。
さらには20年,30年かけても具体的な成果が挙げられなかった研究もあるが,これは後継の研究に活かされることを前提にすれば,なんら非難すべき筋合いはない。
大学運営の問題は,5年ほど時間をかければ,営業管理の結果すべてがみえてくるような企業経営の営利追求とは,質的にまったく異なっている。だから「教育は百年の大計」だといわれてきたのではないか?
ほかにたとえていうとしたら,冨山和彦の議論は,大学問題を “膾(なます)にみたてて” とりあつかったつもりが,実際に当たってやらせてみたところでは,これが実は羹(あつもの)であった。
ということで,冨山流にしたがいなされた「ひとつの大学改革の方向」性は,あえてその羹を一気に飲みこんでしまったかのような「展開と結末(ひとつの「負の成果」)」になっていた。
結局,そのあとに残ったのは “ヤケドの痕” だけであったということになる。ただしこの結果において,傷を負わされたのは大学側だけであった。冨山本人のほうではなかった。
となれば,冨山の役まわりは,ただひたすらドンキホーテみたいにコッケイであった。というよりはそれだけでなく,たいそうな他人迷惑(日本の大学問題の方向性に関したそれ)を,周囲にばらまいただけの結末になっていた。
冨山和彦は,初めからいわなくてよかった助言を日本の大学経営に対して放った。ところが,その後にもたらした悪影響はいまも教育現場に大きな傷痕として残された。つまるところは,それだけであった業績を,冨山は挙げえたことになるが,大学側にとってははた迷惑もいいところであった。
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【未 完】 「本稿(2)」の記述の続き「本稿(3)」は,つぎのリンク先住所である。
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