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noteがXとは違って居心地いい決定的な理由


なんだかんだ、10日間連続投稿をしてしまった みさと です。おはようございます。

投稿を“してしまった”と書きました。
そうなんですよね、気づいたら書く癖ついててびっくりしています。
やると決めたらできるんじゃないか。なんて単純なんだ。


私がXに感じるとっつきにくさ

私はSNSの中ではXをよく使ってきました。
Instagramもやってはいるけどかなり苦手。なんだかまだよくわらない。
Xもそんなに得意ではないですが、とりあえず文字文化なところに安心してます。
何か作ったり撮ったりしたものを投稿って私にはハードルが高く、文字で言葉を綴るものの方が性に合っているみたいです。
まぁでも、みなさんの投稿見て「いいね!」押したりリポストしたり、見る専にちょっと毛が生えた程度の民です。
自分で投稿文作ることはあまりありません。
あ、最近は【note書きました】って情報展開に使うかな。でもその程度。

Xではいろいろな情報が回ってくるので情報にぶつかる機会がぐんと増えますよね。
そう言う意味ではかなり重宝しています。
が、ちょっと息苦しいなぁと感じる瞬間がたまにやってきます。
サイズが合わない服のような、度数を間違えたメガネのような、なんとも気持ち悪い違和感。

SNSはコミュニケーションの場とも言われるので、コメント合戦や多少のぶつかりがあるのは覚悟してはいます。
特にXは、バズることで収益につなげるという特性を持っているので、一定数の「見たくない投稿」に出会うのは仕方ないことです。
見たくなくても目に入っちゃうんだよなー、回ってきちゃうのやだなーって悶々とすることはあっても、まぁそんなもんかと割り切る力は必要。

ちなみに投稿して批判的コメントがきたことはまだないですが、他の方のスレッドで読んだことはたくさんあって、その度に「こういう考えの人もいるのか」と、なるべく感情を動かさずに読み過ごすようにしています。

たぶん私はこういうのがあんまり向いていない。
言葉を綴るのは好きだけど人とおしゃべりは苦手です。
議論は好きだけど雑談は辛い。

こういう風に考えてみると、X嫌いじゃないけど好きになりきれない理由が、その距離感の近さにありそうです。
140字のつぶやきってのは誰でも、どんな言葉でも、瞬時に投げることができますよね。
つぶやきとはまたうまく定義したもんです。
同じように、コメントも気軽に、ほんとに気軽に書けてしまう。
ちょっと立ち止まることもなく書けてしまうものなので、まぁなんていうか、それだけ失敗もしやすい気がします。


noteに感じる安心感の正体

一方noteは何が違うのか。

一週間ほど毎日書いてみてアクセス状況を追ってみてるのですが、noteって不思議なプラットフォームなのがわかってきました。

全体ビュー数、スキ!の数にくらべて、コメントが圧倒的に少ない。

・・・え、私だけ??

いや、めちゃフォロワー抱える有名な方のアクセス数開示してるnote見たけど、割合は同じようなものだったから、きっとみんなそうんでしょう。

で、このコメントの少なさが、心地いいと感じる理由なのではないか、と気づきました。

ネット上に作品を発表しているのに「コメント少ないのが安心する」だなんて矛盾してるんでは?とも思うのですが、コメントが少ない、でもビュー数とスキ!の数はそこそこあるのでどこかで誰かが見ていてくれてることを実感できる
だから、好きなことを好きなように表現できるんじゃないかなって思いました。
Xに馴染めなかったのにnoteは不思議と辛くない、もはや居場所になっているのはそんなことが理由です。(たぶん)

noteの民は意見を言う時は自分で記事書いてそこで主張しますよね。
誰かの記事にコメントで批判するとか意見するとか、あまり見ません。
「人は人」と捉えて他人に干渉しすぎないこの心地よさ。
しかしスキ!やビュー数、「スキ!のお礼メッセージ設定」なんかでコミュニケーションはちゃんととる。

あとあれですね、SNSは有名人(芸能人)と海外の方が多いけど、noteは有名人(漫画家さん、作家さんなどの文化人)、企業の特定の部署のアカウントが多くて、かつ日本人が参加しているって違いもありそうですね。

きっとこのあたりが、私にとってのnoteの安心感の正体です。



あー、書いてみてよかった。
何となく頭でぼやぼや考えてきたことがスッキリつながったぞ。

noteでよかった。


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