40番しのぶれど色に出でにけり①   平兼盛


しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで 
平兼盛たいらのかねもり 

歌意 心のうちにこらえてきたけれど、顔色や表情に出てしまっていたのだった。私の恋は、恋のもの思いをしているのかと、人が問うほどまでになって。                所載歌集『拾遺集』恋一

『原色小倉百人一首』(文英堂)より

40番 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛 
この歌と
41番 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見
は、歌合で競って なんかかんかあって、
恋すてふ(すちょう)が負けた。みたいな知識くらいまでが ある。

そこいら辺、恋事が人にばれたときの心に、
より沿っている歌、言葉はどれか。
前回花山さんが書いているのを読んだ。

これら二首は紛れもなく歌合の場に対して詠まれている。居合わせる人々に「あなたたちにバレてしまいましたよ」、と呼びかける一種のパフォーマンスにもなっているのだ。

「主婦と兼業」41番鑑賞文(花山周子)より

この部分と、兼盛の歌について、

「しのぶれど色に出でにけり」という堂々とした初句が置かれ、その内容も「片思いなのに顔にでちゃってたみたい。人に「恋をしてるの」と聞かれてしまうほどに」
という言いざまはどこか落ち着きすぎている。パフォーマンスとしての出来栄えがこの歌の全てなのだ。

「主婦と兼業」41番鑑賞文(花山周子)より

というところで、ああパフォーマンスだったのか。と思った。
パフォーマンス。

2023年に短歌をつくっているわたしは、

しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 

「片思いなのに顔にでちゃってたみたい。人に「恋をしてるの」と聞かれてしまうほどに」(花山文より抜粋)
という感情では一首にもならない。
現に今までこの感情では一首もできていない。ひとつ作っておいて連作の中にまぎれこませよう。ということもなかった。

 私は「こ(恋)ふ」とは「こ(乞)ふ」だと考えています。これは、国文学者で歌人であった折口信夫(一八八七ー一九五三)の説で、彼は「『恋ひ』というのは『魂乞ひ』である。恋人の魂を乞うことだ」と主張しました。しかし、「こひ(恋ひ)」と「こひ(乞ひ)」は、古代の発音を調べると「こ」も「ひ」も少し異なってることから、一時は否定され、それに賛成する人は、ごく少数でした。
 しかし、私は、「こひ(恋ひ)」と「こひ(乞ひ)」の発音が多少異なっていても、前に述べた「ひ(日)」「ひ(火)」と同じように、むしろ内容の少しの違いを区別した、仲間語だと考えています。( 中略 )
 さて、はからずも「魂をちょうだい」というのが「こひ(恋ひ)」だといいましたが、折口信夫のいう「たまごひ(魂乞ひ)」について考えてみましょう。
 「こひ」「こふ」とはどういうものか。それは離ればなれである恋人同士が、互いの魂をよびあうことでした。
 古代では、魂は浮遊するものと考えられていました。魂の結合こそが、恋の成就でしたが、それがなかなか実現しないので、古代の「こひ」とはつらいものでした。逢いたくても逢えない切なさ、それが「こひ」だったのです。

 ひらがなでよめばわかる日本語 中西進 (新潮社)より 

                           

しゃくちょうくう(折口)説を
中西文からとってきて これはこれは とんだ孫引きであるけれど 
この文のように こいがこいであるのならば、
「ものや思ふと 人の問ふまで」それは もはや こい ではない。
伝言ゲームによる変形のなれの果て。
それをよく知らない「人」に一方的に提示されたときこころに思いうかぶのは、むしろ あーあという失望ではないのだろうか。

それよりも、

40番 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛 

好きなあの人に「どうしたの」って聞かれてしまうほど
顔に出てしまっている、わたくしのとり散らしよう。

と、人を「周囲の人」でなく、
「主体の思い人」とすると、感情はたちまち顔を変え、生き生きとする。
この感情は さっき引用した こい だと思う。
そのような翻案とした。
                          
かくしてもどきどきしてわかってしまう
あの人におちつけといわれて     今橋 愛


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