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23番(花山版⑤)月みればちぢにものこそ        大江千里

花山周子記

月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
 大江千里 〔所載歌集『古今集』秋上(193)〕

歌意
月を見ると、あれこれと際限なく物事が悲しく思われるなあ。私一人だけの秋ではないけれども。

『原色小倉百人一首』(文英堂)

前回、子規と漢詩の話に触れたけれど、子規に限らず近代の頃までは、ほとんど全ての文学者に漢学の素養があった。

 少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短かきにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏めいめいりに左国史漢より得たり。

夏目漱石「文学論」序

これは、子規と親友でもあった夏目漱石の言葉である。近代といえば、西欧文学の影響、新しさのほうに目を向けられがちだけれど、そのベースには漢文学があったのだ。そういう、漢学=「文学とは斯くの如き者なり」というところからスタートしていたことの感覚が、現代では決定的に抜け落ちてしまっていることが、私は以前から気になっていた。

漱石が日本の文学というかわりに、「漢文学」といっていることは興味深い。もちろん漢文学は国学者のプロテストにもかかわらず、日本の文学の正統であった。吉本隆明が強調しているように、万葉集でさえ漢文学あるいは漢字のもたらした衝撃において成立したのである(「初期歌謡論」)。花鳥風月はいうまでもなく、国学者が想定するような純粋土着的なものも、漢文学による「意識」において存在しえたのだ。古代の日本人が「叙景」をはじめたとき、つまり風景をみいだしたとき、すでに漢文学の意識が存在したのである。(略)問題が複雑になるのは、明治二十年代における「風景」の発見がそれと近似することであり、いいかえれば、そのような転倒が累積されたことである。

柄谷行人『日本近代文学の起源』

たぶん、和歌・短歌を考える、あるいは語ろうとするときにも、漢詩との関わりという観点が、あるところから完全に抜け落ちてしまっていて、ある時点までは共有され見えていたものが、どこかから分からなくなってしまっているのだと思う。たとえば、短歌のことを「一首」というけれど、以前、私はなんで「首」と数えるのか気になって調べてみたことがある。「首」は漢詩由来の言い方だった。俳句はそのうちの上句だけが独立したものであるから「一句」と数えるので、よく、短歌が「一句」と間違えられるというのは、完全に「首」の由来が忘却されてしまっていることの現れなのだ。漢詩に触れていた頃の人には間違いようのない間違いなのである。

千里の歌はそうした意味でも、漢詩との接点が忘却の川のなかで杭のようににして残されたとても貴重なもののように思える。千里の生きた時代――「和歌の表現に広がりが加わる場面(馬場あき子)」「中国文化の影響を脱ぬけ出して、日本古来の文化が見直された頃/漢詩文と和歌が歩みよりはじめた時代(田辺聖子)」――の、過渡期であったからこそ残された断層。そして、おもしろく思うのは千里たちが輸入した白居易(白楽天)もまた過渡期の詩人であったという。

 白楽天は、中国の詩に変化をもたらした人々のうちの、一人だったのです。
             (略)
 変化の一つは、詩の「散文化」ということです。従来は散文でしかのべなかったことを詩の世界でうたう、散文の言葉を詩の中に導入する、「情」を主とする詩の中に、散文の「理」を持ち込む、そういう形で詩の散文化がはじまりました。
 白楽天は、その変化のにない手の一人でした。平易な言葉を使い、実作でもって、詩の変化の動きに積極的に参加したのです。
             (略)
 詩から散文へ、それは中国文学史の大きな流れでした。白楽天はその先鞭をつけた(先駆けとなった)人物の一人だといってよいでしょう。

一海知義『漢詩入門』(岩波ジュニア新書)

「「情」を主とする詩の中に、散文の「理」を持ち込む」というのは、そのまま古今集の和歌の特徴のようでもあるし、子規が批判したことそのものでもある。遠い時代のことではあるけれども、こういう推移や影響関係の中に作品を置き直すとき、和歌が俄然、生々しい感触を持つような気がするのだ。

長い脱線になってしまったけれど、次回で本当におしまいにします。


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