【老害】スクラップ・アンド・ビルド
先月から突然我が身に降りかかった、親の介護。。。
結婚と同時に実家を離れ、友好的な関係ではあったけれど、24年間両親とは一定の距離を保ちつつ各々で生活を営んできた。
それが父の体調不良を境に、ぐんと距離が縮まったことで、良くも悪くも発見だらけの毎日を送っている。
その中でも特に大きな衝撃は我が両親の至らなさ・・・だ。
これは、本当に残念ではあるけれど…どうやら受け入れたほうが良さそうだと1ケ月を経過した頃に抗うことをきっぱりやめた。
私が結婚した24年前、父はバリバリの現役仕事人。
母は、3歩下がって専業主婦。
昭和の典型的な家庭に育った私は、両親を『大人』だと認識していた。
その後も、子育てのアドバイスをもらったり、人生の先輩として2人の背中をみて今日まで歩んできた。
しかし、現在78歳の父・75歳の母を目の前にして思うことは、無数の凸凹を抱えたちっぽけな老人だということだ。
往診の先生とのコミュニケーションのちぐはぐさに始まり、父の大黒柱風を吹かせるところ、母の判断力の無さ。。。決して悪口ではなく、ただただ驚きの連続なのだ。
次は何が飛んでくるのだろう?と日々身構え、予想だにしない方向からの球が直撃し、びっくり➡がっかり➡落ち込み➡立ち上がるを繰り返している。
自分の親にはこうであってほしい(輝)
なんて理想や期待は、もう微塵もない。
それよりも、父や母が歩んできた人生に想いを馳せることが多くなった。
会話の隅々に潜んだ、価値観、常識を塗り替えるのは不可能だ!いや必要ないのだ!!という結論に至った。
どんな家庭環境で育ち、どんな社会・教育・常識の中で生きてきたかは、細胞レベルでしみついている。
巷でよく聞く【老害】の一言で表すには歩んできた重みがあり過ぎる。
これらは、自分に置き換えても同様のことが言えるだろう。
残された時間を両親とどう過ごしていこう。
そして私は、どんなふうに老いていくのだろう。
この2つの目線が、行ったり来たりしている。
この先の人生なんて考えたところで何も分からないけれど、学び続ける、考え続けることが必要なのではないだろうか…という手を伸ばしても掴めないぼんやりとした感触だけが今ここにある。
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