physの考え事
文章にする前の、日常に流れて消失してしまいそうな思考のたねを投稿します。 芽が出た種は考え事に移動します。 芽の目安→スキ10回にとりあえず設定してみようかと。 10回スキが溜まったら、内容深掘りして考え事の記事にしてみます。気になるたねには、スキをどうぞ!
考え事として書き溜めた記事のバックナンバーです。
表現って、長けりゃいいってものでもない。 詩とか短歌とかでものすごく考えさせられることもある。 毎日の文章投稿はやめるけど、ネタとして書けそうなことの書き出しをストックするマガジン、その名も、思考のたねを始めます。 考え事に書き始める前に、もっと原初の状態の思いつきを、数行で投稿、ストックしてみようと思います。 そのままダメになる種もあれば、 芽が出て育つタネもある。 芽の目安→スキ10回にとりあえず設定してみようかと。 10回スキが溜まったら、内容深掘りして考え事の
新しい組織に入る。 分からないことに囲まれる日々が始まる。 自分にはなにもできないのではないか? 自分は無力だなぁ。 活躍した経験がある人ほど、そんな状況に陥る。 人が集団で活躍するためには、いくつか条件がある。 その中でも特に大きいのは、人とのネットワーキングだ。 自分の力を適正に発揮するためには、人から力を発揮して欲しいと願ってもらう必要がある。 そのためにできる最初の一歩は、自分を開示して、手の内を渡すことだ。 それは、ちょっとした雑談であり、自己紹介であり
人生についての話。ちょっと生意気かもしれないけれど書いてみる。 一つの顕在化した可能性を追い求める道の価値がある。 複数の潜在化したカードを選択できる道の価値がある。 どちらも尊いことで、これらを行き来する生き方が、VUCAへの一つの解なのではないか。 思考のたねのバックナンバーはこちらより
今日久しぶりに高校物理の質問を受けた。 質問者さんは具体的にここがわからない、というところをピンポイントで僕に聞いてきた訳だが、明らかに困っていた。 僕なりにこうしたらわかりやすいだろうという文脈で説明したら、嬉々とした表情で帰っていった。 多分、僕がした話はすでに授業で聞いたものばかりだっただろうと想像する。説明するたびにしきりにわかりやすい!と言ってくれていたが、多分そうではない。 授業を聞くときに困っていなかったことを、自分のものにしようと思って今回は聴きにきたか
機械論的に組織を設計すると、後任は前任者が成り切っていた歯車の役割を求められる。 人は他者と同じように挙動などできない。 これが繰り返されれば、自然と組織は歪む。後任のせいではない。システムエラーとして、歪む。 システムエラーを回避しようとすると、組織が守られる代わりに、後任の自我が歪む。 後任は、その組織のその歯車として生き続けるわけではないだろう。さらに次の後任が、同じように自我の歪みを選ばない場合も考えないといけない。その場合、自分の自我を歪ませてまで守りたいこ
数年前からの疑問がある。 学校の教科・科目(すなわちカリキュラム)は現行のままで良いのか?というものだ。 過去、高校に情報が追加されたり小学校に英語が追加されたりなど、変遷はあるものの大きな骨格は歴史の長い権威的な学問に紐づいたものばかりである。 これらに興味を持てない生徒にとってはより細分化され、さまざまな科目がより多く学べるカリキュラムに変わっていく必要があるのではないか。 そう思っていた。これはカリキュラムの多様性を細分化によって担保しようとする、離散的多様性のた
好奇心を持ったり発揮したりする事はとても大事なことだ。好奇心の対象には集中力が増し、打ち込める。 誰かがそんな好奇心を発揮している時、焦ったり妬んだりしてしまう感受性システムがある。そのシステムを強化してしまう構造がある。
教育の成果は一般的に、観測が難しいとされる。 短期的なわかりやすい成果もあれば、長期的にみないと掴めない成果もある。 データで見るのか、その人の人となりで見るのか、会話で見るのか、とにかく教育は成果が測れない。 でも現場にいると、本当にたまに瞬間的な成果を感じることがある。 その時大抵相手の生徒は、 空気が変わる 目の色が変わる この現象には再現性があるのだろうか。 僕は、あると思っている。 思考のたねのバックナンバーはこちらより
人に教えるのが最も学びになる。 教員にとっては良く聞く言葉だ。 新しい教育現場には グループワーク、AL、個に応じた指導 いろいろあるけれど、結局は教えるというアクティビティに勝る学びはない。学校のラーニングコミュニティ的な未来を想定してしまいがちだけれど、学校は本当は、ティーチングコミュニティを目指すべきなのだろう。
押し付けるのは洗脳。 選択できるのが教育。 教育と洗脳の境目は、選択肢の多寡だ。 一枚のカードは洗脳を産み、 複数のカードは教育たり得る。 教育者とは、カードを何枚も準備してあげる者だ。自分が準備できなかったカードを外部で見つけてきた生徒を祝福できる者だ。 究極、生徒に無関心の愛情を注ぐことができる者だ。 思考のたねのバックナンバーはこちらより 追伸 短い文章にすると、1日に複数回投稿できるというメリットがある。 X以上ブログ未満、エッセイでもHOWTOでも物語で
何かを成そうとする時、そのスピード感というのはかなり重要なことだ。スピード感とはつまり、実践とリフレクションの回転数のことで、ここにどれだけ初期投資を割けるか、という話でもある。 その初期投資は一時的に働き方改悪に見える。それをみた周りが、体に気をつけて、とか無理しすぎないでと声をかけるのは価値観がずれている。 将来楽になるために働き方を改悪してでも行う初期投資は、長い目で見たらものすごく大きな働き方改革になる。 思考のたねのバックナンバーはこちらより
残業と長生きの違いってなんだろう。 数年前に素朴な疑問としてFacebookに投稿して多くの方から意見をいただいた。 近年、働き方改革というのが叫ばれると同時に、定年延長や再任用という制度が出現してきた。働き方改革で日々の残業を減らしたとして、健康寿命が延びたことによる定年延長は人生そのものにおける残業と捉えることもできる。 つまるところ、若い時のプライベートと年老いてからのプライベート、どちらを多く得るのか、という話になっていないか? 思考のたねのバックナンバーはこ
最低賃金が上がると、人類にとっての延べ可処分時間の総額が上昇する。 しかし、時間の価値はどんなに上がり続けても、人にとっての1秒は1秒でしかない。 つまり、給料や最低賃金が上昇すればするほど円安時高になる。資本主義はこうやって、時間の価値を高め、お金の価値を下げていく仕組みともいえる。 思考のたねのバックナンバーはこちらより
多くの人が自己の主体性を解放し、真の意味で多様性が発生すると、そこに機械論的持続可能性は存在することができない。 機械論的持続可能性を追求し人の主体性にフタをすると、真の意味での多様性は発生しない。 多様性と機械論的持続可能性はトレードオフだ。 思考のたねのバックナンバーはこちらより
何事も始まりは真っ白で空っぽだ。 何かを始めようとしたその瞬間には実績や知識、スキルは何もない。その空白を恐れたら、人は何も描くことができない。 思考のたねのバックナンバーはこちらより
なんとなく毎日投稿を始めて今日で31日目になった。とりあえず2024年1月は毎日文章を書くという自分実験を達成できそうだ。多分、ちゃんと毎日投稿するのは今日までにすると思う。1ヶ月できることは2ヶ月でも3ヶ月でもできると思うから。 今回は、この1ヶ月間自分がやってきたことが自分にとってなんだったのか、リフレクションを兼ねて書いてみる。 時間リソースの投資先としての文章執筆自分の時間リソースを何にどう分配するのかというのは重要な命題だ。実は僕は、将来的に学校や教育について本