『蔦の細道』をたどる
三十六歌仙の一人・在原業平の代表作『伊勢物語』9段に登場する「蔦の細道」に関する件りの一節です。
📖『伊勢物語』の書き出しには、「昔、男ありけり‥‥」が多くあります。光源氏をそのままに生きたかのような華麗な宮廷歌人で、有名です。
彼は、この蔦の細道で思いがけない人の出会いと旧暦5月の末日にも関わらず、富士山の頂きが雪化粧されていたことに、驚きます。
旧暦5月の末は、🗓現在の暦では7月上旬頃〜6月下旬の時期にあたり、京育ちのおっ坊ちゃん在原業平は、この地に立って驚き、印象に残ったので『伊勢物語』に、この件りと和歌まで添えたのでしょうね。
この『伊勢物語』を踏まえて、鎌倉時代の女流歌人・阿仏尼が綴った旅行記『十六夜日記』にも、蔦の細道を辿る件りがあります。
京都を出発したのが弘安2年(1279年)旧暦10月16日の🌔月が十六夜だったことから日記の表題が十六夜日記となりました。
歌道の御子左家に後妻として嫁ぎ、和歌の世界で活躍した女性で家業を支えて来たにも関わらず、夫・冷泉為家の死後、遺産相続の訴訟で為家の本妻と本妻の子・二条為氏と阿仏尼は60歳の高齢の身で争うことになります。
弘安2年(1279年)旧暦10月25日、菊川宿から鎌倉に下向した際に綴った『十六夜日記』にも阿仏尼が蔦の細道を辿る件りが記されています。
東海道には数々の難所があります。
箱根峠、薩埵峠、日坂の小夜の中山に加えて宇津ノ谷峠、大井川に鈴鹿峠が挙げられます。
その中で、在原業平や阿仏尼が綴った宇津谷峠を越えてゆく「蔦の細道」を歩いてみました。
静岡市丸子から藤枝市岡部へ東西に抜ける峠が宇津ノ谷峠です。
岡部宿は東海道の21番目の宿場町で難所の宇津ノ谷峠が控える宿場町です。静岡市の西岸・丸子宿から二里(10.0km)、次の宿場・藤枝宿まで一里二十六町(8.7km)の中間点にあります。
「宇津ノ谷」の「ウツ」とは、静岡の方言で「獣の道」を意味します。
昼間でも木々が生い茂り薄暗く、文学的な香りがする道も追い剥ぎがよく出没した別名、「追い剥ぎ天国」でした。
河竹黙阿弥が描いた歌舞伎の名作『蔦紅葉宇津谷峠』では主家の金策に奔走する堤婆の仁三が大金を持って来た按摩の文弥を宇津ノ谷峠で殺害し大金を強奪してしまう件りの場面で登場します。
奈良時代の官道や東名高速道路は日本坂峠を東西に穿っています。
現在の国道1号線バイパスは上下二車線です。
23歳の若さで鈴鹿サーキットに散っていった伝説のレーサー・浮谷東次郎の📙著者にも、宇津ノ谷峠が登場します。
伝説のレーサー・浮谷東次郎が15歳の時に、父から旅費1万円の大金を出して貰って、東京の自宅から大阪まで、出かけた際の旅行記の一節です。
🇩🇪製のクライドラー50ccのオートバイで、🛣高速道路が無かった昭和32年に高校進学前の夏休みに進路で悩み、旅に出発することを決意し、旅費の8500円を父にお願いします。
大卒男子の初任給が2万円だった当時の8500円は、浮谷にしても浮谷の父にとっても大金だったでしょうが、浮谷の父は覚悟していたらしく、ポケットから💴1万円を出して、机に置き
お父様、カッコいい❗️
彼はその後、都内でも屈指の進学校・都立両国高校に入学します。両国高校は旧制府立三中が前身の都内でも日比谷高校に並ぶ超進学校です。
両国高校の先輩と言えば、あの芥川龍之介。 両国高校から東海大に来た🧑🎓同窓が自慢していましたので、よく覚えています。
この小説は、東海大一高の夏休み課題図書の何冊かに選ばれていましたので、迷うことなく新潮文庫の単行本を読み、休み明けの登校日に読書感想文を提出しました。
それまでの読者感想文はあとがきと解説に目を通して、受け売りな文を書いて出しただけでしたが、23歳の若さで輝かしい成績の最中、鈴鹿サーキットで命を落とした伝説のレーサーの手記は食い入るようにして、読んだものです。
バイク通学やバイク免許の取得を禁じていた高校でしたが、よくこの本を課題図書の一冊に選んだものだと、高校の先生の懐の大きさにも驚きました😱
ここで引用した一節に登場するトンネルこそが、宇津ノ谷トンネルです。昭和33年、読売巨人軍に立教大から長嶋茂雄さんが入団した年に、浮谷東次郎は両国高校に進学したのでした。
その一年前の夏休みに浮谷が出かけた東海道・宇津ノ谷トンネルは未だ、舗装はされていなかったのですね。
この宇津ノ谷峠越えを藤枝・岡部から静岡府中に東上する際に、右に逸れて木和田川沿いから迂回するルートが「蔦の細道」です。
ここはその昔、〝追い剥ぎ天国〟とまで言われた夜盗や強盗が出没する怖いルートで、その被害者で一番有名な方が鎌倉幕府三代目の鎌倉殿・源実朝の正室、千世でした。
二代目・頼家は、関東の有力御家人・比企氏のお嬢様を娶ったために、御家人同士の覇権争いに発展してしまった反省から、京都からやんごとなきお姫様を娶ることになり、千世が東下りすることになったのですが、実は千世は前の大納言・坊門信清のご息女で、西八条禅院信子。
時の最高権力者・後鳥羽上皇の母方の実家で、後鳥羽上皇とは従姉妹です。
鎌倉幕府を陰で支え続けた足利家。番組では足利家と新田家は登場していませんでしたが、足利家は新田家と共に、源氏の家系で三浦氏より格は上で、武田源氏が登場したのですから、足利家は出て来ても良かったはずです。
実朝の嫁取りは足利家の娘を娶り、御家人や関東武士団の絆を深めようとしていました。
後の室町幕府を創建する足利尊氏の祖先・足利義兼の娘を娶る話しが決まりかけていたものを実朝のゴリ押しで千世との婚姻が決まりました。
実朝は、この頃から京都への憧れが彼全体を覆っていたのでしょうね😍
実朝の婚姻が面白くない方向に動き始めて、苛立ちを覚え始めたのが、初代執権の座にあった北条時政です。
頼家の婚姻の際には主導権を握れなかったので、焦りもあったことでしょう。時政の後妻・牧の方の心中も穏やかではなかったはずです。このまま看過すれば、頼朝挙兵時に💦汗を流した北条家より、様子見で静観していた比企氏に鎌倉幕府の実権が渡ってしまう‥‥。
嫡男・頼家の乳母は頼朝の乳母子・比企の尼の先例に倣い比企氏から出し、ライバル比企氏で嫁も比企一族から出しています。次男の実朝は絶対に北条家からと思っていたはずですが、意にそぐわず都から嫁を取ると言い出した実朝。
そこで、千世の輿入れの際に、「蔦の細道」で強盗が金品や輿入れの道具の一部を掠奪したことを黙認し、命までは奪わないがちょっとした嫌がらせをしたと私は考えています。
なぜなら、この時の駿河守護は北条時政。今でいえば静岡県知事&静岡県警本部長の重責を担っていました。
生前の源頼朝は、東海道の整備を関係する守護・地頭に命じていますので、東海道の通行の安全も守護の大事な役目でした。
そのお膝元で起こった実朝許嫁への強盗事件、本来なら責任問題に発展しかねない不祥事です。
📖『吾妻鏡』の記述には、この責任論は一考すらされていません。鎌倉時代草創期、何かと責任を取るべく有力御家人たちが粛正されていきました。
大河ドラマをご覧になった方なら、有力御家人たちの粛正されていく様を知っていただき、あれが実話だったという怖い方々を描いた🎞『仁義なき戦い』も真っ青な時代です。
その中での宇津ノ谷峠での強盗事件ですから、他の御家人が関わっていたりとか、警固が手薄でしたら、間違いなく責任の所在を問われる大事件です。
みなさんなら、どうお考えになられますか⁉️
閑話休題
先ずは例によって、丸善ジュンク堂書店に行き、宇津ノ谷峠付近の国土地理院発行の🗺地図を買い求めるところからです。
そんな予備知識を頭に入れて、新静岡バスターミナルの1番線、藤枝線で🚌バスに乗ります。
🚌の停留所を降りれば、すぐ目の前に、道の駅「宇津ノ谷峠」があり、ここからスタートです💦
休憩室で喉を潤し、出発です。
休憩室の右脇から入山口があります。
最初の30分は山に入ったなぁと実感できる登山道を登ります。
出発が10:07分でした。
登山道はよく整備されていて、登り辛いということはありません。急登も僅か2〜3分で上がりつきますし、もう少しあってもいいのではないかと思うくらいです。
登山というよりハイキングコースですね。
登山道はしっかりしていて、歩き易いです。
日中でも陽が直接当たらず、木立ちの中を歩くのは、森林浴に癒されている感じがします。
訪れる方も少なくのんびりマイペースで登っていけます。崩壊していたり、崩れかかった危険な箇所もありませんでした。
道はしっかりと判りますので、迷うことはありません。備え有れば憂いなしで用意して来た🗺地図を出す機会はないほどです。
この急登を登り切ると、「く」の字型に折れ曲がり二度曲がると突然、目の前の視界が広がります。振り返れば、晴れていると🗻富士山の頂きを拝むこともできます。私の読図が間違ってなければ標高は135mなので、約50mの高さを登ったことになります。
夏場ならともかく、冬場なら💦汗が滲む前に展望が開ける場所に到着です。
到着時間は10:38分、所要時間31分の山行です。
ここに、平安時代の歌人・在原業平の歌碑があります。
「駿河なる宇津の山辺にうつつにもゆめにも
人にあわぬなりけり」と、🪦歌碑にあります。
『伊勢物語』の一節です。
「宇津谷」の山と「うつつ」にと掛け言葉を引用したのでしょうね。
展望広場と称しておく四叉路には、岡部側に長椅子も用意されていました。岡部町から先に広がる志太平野が見渡せます。
ここからは晴れていると、在原業平や阿仏尼も眺めたであろう富士山の頂きですが、山頂にうっすらと雲がかかっていました。
四叉路になっている道をまっすぐ下ります。急な下り坂はここだけで、ものの二、三分で平坦になり、直角に左へ曲がれば、一気に視界が広がります。
ピンボケしているので解り辛いですが、桜の木々だったはずです。
この桜を過ぎると農家の農道となり、人が一人通れるような農道を下って来ると、「猫石」と呼ばれる巨石があります。
猫石を過ぎると石畳みの道となり、「蔦の細道」のような風情が出て来ます。
蔦の細道は僅かで終わりを告げます。
「蔦の細道」の石碑があり、木和田川を渡河すればコンクリートで舗装された道を木和田川沿って、ダラダラと下り、東家、🚾公衆トイレに駐車場があり
「蔦の細道」は終わりです。
岡部町教育委員会の看板🪧を拝読しますと、蔦の細道は標高210m、最大斜度24°、距離1500mとあります。蔦の細道の謂れも記されていました。
木和田川を渡河すると、木和田川上流遊歩道が川沿いに続きます。砂防堤防もあり、自然環境を損ねないよう配慮された治水工事がなされています。
看板も丁寧に見ていくと、勉強になりますね。
東家がある公園には、宇津谷峠・蔦の細道に関わる歌が🪧になっていました。
一例をあげますと、
治承4年七月十五日条
明治5年までは🌕月の周期を🗓暦の軸とした太陰太陽暦でしたから、毎月一日が新月🌑、15日が🌕満月で月蝕が起こるとしたら、15日を中心とした月中に起こりました。
旧暦7月15日は、現在の太陽暦では1180年8月7日にあたり、国立天文台DBを参照しますと、部分月蝕が起こりましたが残念ながら京都では観測出来ない地域で起こっていました。
国立天文台DBによると、
14:42分から🌖月は虧け初めて北海道・根室辺りから房総半島を経由して太平洋上を南下し、インドネシアへと月の軌道・白道が記されています。
旧暦七月十五日は、盂蘭盆の仏事とも重なり、雲一つない明月だったにも関わらず、不吉な予兆の月蝕が不蝕で定家は暦の信憑性に疑問を投げかけたのです。
定家が当時、高価だった具注暦という天文方が使う専門書をそばに置き、日記を綴っていたことが窺えます。
他にも🌠流星☄️を記す記述もあり、天文学の分野でも『明月記』は注目されています。
そんな藤原定家が蔦の細道にも想いを馳せていたのです😱
兼好法師の文才は、まさに芸は身を助けるで、一番有名な恋文の代筆依頼者は、足利尊氏の執事で猟色家としても悪名を広く知れ渡る高師直です。
高師直は、独身のご婦人や未亡人は言うに及ばず、こともあろうに京都で名を馳せた塩谷判官の現婦人を口説く際に、兼好法師に代筆を頼むという破廉恥極まりないことまで平気で出来るバサラ大名でした😱
頼む方も頼む方ですが、引き受ける方も引き受ける方です。
阿仏尼は60歳を過ぎてなお、訴訟のために僅かな共周りと共に、京都から鎌倉幕府の裁判を取り扱う問注所に今でいう、「遺留分」の侵害にあたる播磨国細川荘の領有権を実子、冷泉為相《れいぜい ためすけ》に継承出来るよう粘り強く争います。
現在の60歳とは違い、平均寿命が50歳を下回る鎌倉時代に、一大決心したとはいえ、並々ならぬ悲壮な覚悟です。
結論を先にいえば、8年以上に渡り争い、阿仏尼が
亡くなった後は為相が裁判を引き継ぎ、勝訴します。この冷泉為相が後に繋がる冷泉家の家祖です。
阿仏尼は鎌倉では極楽寺切通の先にある地蔵堂という祠に住み着き、問注所に度々通います。
切通の外と言えば、要は〝場末〟。江戸時代の江戸なら、大木戸の外と一緒、つまりは下界で、それは鎌倉時代も一緒です。
極楽寺界隈は当時、切通の外で地獄谷と呼ばれていました。病人や極刑の罪人を葬る葬祭場だったからです。なので、時の執権・北条義時の三男・北条重時が地獄谷と呼ばれるこの場所に極楽寺を建立したほどです。
木和田川を眺めながら、岡部に向かうと兜堰堤が見えて来ます。今の木和田川からは想像し辛いですが明治43年8月の豪雨で氾濫し、岡部町の田畑は大被害を被りました。
そのため、🇳🇱オランダ人技師、ヨハネ・デレーケ氏を招聘し技術指導を依頼、防災・減災の砦となる「兜堰堤」が完成しました。
日露戦争に勝った勝ったと浮かれていても、治水工事はオランダ人技師に頼まなければならなかったのが、当時の日本でした😥
ヨハネ・デレーケ氏の構想した兜堰堤は今でも、崩壊することなく、防災・減災に役立っています。
兜堰堤を過ぎると、駐車場前に公衆トイレがありました。
宇津谷トンネルを跨ぐ歩道橋もありますが、今回は秀吉が開鑿させた旧東海道を通るために、一旦来た道を少し戻ります。
小田原・北条攻めの際に20万人とも言われている大軍を動員した豊臣秀吉。
秀吉の動員を陰で支えたのが、兵站を仕切った石田三成と理財・経理を司った長束正家です。
宇津谷峠を跨ぐこの道を拝見すると、三成や正家の手腕の一端を垣間見ることが出来ます。
三成の目利きには数々のエピソードがありますが、私が一番印象に残っているのは、淀川河川敷に群生する葦の刈り取りです。
秀吉から論功行賞で数々の大名が領地を貰い受けた中、三成だけが領地は要りません、その代わりに琵琶湖から淀川沿い河川敷の葦の刈り取る権利を欲しいと言い出します。
武功派大名はまたまた三成のスタンドプレーが出たと蔑みます。とりわけ福島正則は三成を嘲笑いながら、退出する中、秀吉はそれだけなら、と二つ返事で安請け合いします。
後日、三成はこの葦の刈り取り利権を専売とし、この葦で雨合羽や屋根の芦屋吹きとして、販売し多額の財をなします。
三成はさらにその財を金に変え秀吉に全額、進呈する時に、この金は淀川沿いの葦を刈り取って得たものだといい、当時の価格で3万石に相当する額にのぼったと記されている資料があります。
3万石と言えば、足軽1500人を動員出来るほどの財力ですが、その成した財を全額、秀吉に献上する三成の目利きと忠誠心、さながらロイヤリティーは他の武将にはありません。
徳川家康をして、三成のような家臣が欲しかったと言わしめたのも納得出来ます。
この東海道を歩いていると、石田三成の息吹きを感じることが出来ます。
国道1号線宇津谷トンネルの上を跨ぎ、緩やかに登っていくと左側に小道が設けられています。恐らくこれが本来の東海道を東に向かう官道だったのでしょうね。
小道を上がって行くと、ものの2分とかからずに、旧宇津谷峠に着きます。
宇津谷峠の四叉路を下るとすぐに、🪧看板があります。「地蔵堂跡」の看板です。日中でも木立ちの中、薄暗く少し不気味な感じがします。
ここにはかつて、地蔵堂が建っていたようです。
彼の手記によると、50ccのバイクで通過しようとしたら、宇津谷トンネルの手前で🛞タイヤがパンクし、パンク修理をしていたら、大型トラックにはねられそうになったと、際どい話が描かれています。
デザートには少し戻って『甘味処 ちょっと今昔』でひと息。
2階は、模型工作も出来る個室があり、貸切も可能だそうです。
秀吉の大軍は小田原に向けて、この宇津谷集落を通過して行きました。
所要時間 02:37分
歩行距離 3.7km
総 歩数 7780歩
消費カロリー647kcal
でした。詳細はYAMAPに登載しています。
終わり