『逆櫓の松』の地を訪ねて
梶原平三景時は誤解され易い武将でした。
とりわけ、義経ファンからは非難されても仕方ないと思われがちですが、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人』では、脚本家・三谷幸喜さんのお陰で、梶原景時の理解者が増えたのではないかと思い、嬉しくなりました。
私が彼を中々の武将だと痛感したのは、学生時代に中世史概論の授業で『平家物語』が取り上げられて、「逆櫓の松」の件りを勉強したからです。
📖『平家物語』第十一巻 逆櫓の巻、
大阪市福島区福島にある碑を訪ねてみました👣
それには、🚅新幹線で新大阪駅でおり、大阪までJR西日本の京都線で行き、大阪からJR大阪環状線に乗り換えて、一つの駅🚉福島駅で下車します。
📺NHKで放映されている大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、面白いと評判です👍🏻
番組も前半1/3を過ぎ、いよいよ源平合戦の分水嶺、屋島合戦が描かれると思いますが‥‥。
屋島は、四国香川県高松市の北東部。平家水軍の拠点でもあり今で言うなら、平家水軍の拠点・軍港でした。
しかし平家と違い、源氏方には水軍と呼べるほどの海軍力はありません🥲
屋島へ襲撃するため、淡路島を巻いて北から攻めるか?南から攻めるか⁉️
当時は動力を持たず小舟で渡る時代、四国へ渡るための準備に摂津国渡邊に源氏方が集結し、戦評定が始まります。
その戦評定の場所が現在の大阪市福島区福島2丁目にあった老松の下と言われています🤔
現在は道路に面していますが、当時は左の道路は蜆川と称して川だったそうで、このまま進むと大阪湾に注ぎ込みます🗣
蜆川の別名は縮み川ともいい、大川から分流した堂島川とさらに分流した蜆川の川幅が徐々に狭まり細なって、再び堂島川に合流したことから名づけられたそうです。下記に示す古地図をご覧ください。
碑が建つ薄茶色のマンションの1階に☕️『喫茶店 ウィンブルドン』があり休憩方々、親切な女性店主様に色々伺いました🧐
やはり、地元の歴史は地元の方に伺うのが一番ですね👍🏻
資料も出して来て下さり、歴史書にはないことまでご教示いただきました。
店主様の解説では🗣
店の前はその昔、蜆川と言い玉江橋が架橋されていたとのこと。
この辺りは江戸時代、各藩の米蔵があったがそれ以前にも舟が往来し蔵が立ち並びこの界隈を牛耳っていたのが渡邊家で渡邊本家・分家が集まっていたので渡邊津と呼ばれていたそうな。
梶原景時公が舟の調達などで頼ったのが渡辺当主だそうで、未だ未だ劣勢とは言え平家水軍の実力は侮り難いこともあり、渡辺家が源氏方に助力するには、胆力が試されるところだったようです🤨
写真左側を国道2号線が東西に走っています。東に行くと、曽根崎です。そう、江戸時代に近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中』の舞台となった⛩露天神社があります。
『曽根崎心中』のことはまた別の機会に触れるとして、逆櫓に戻ります😅
🤳写真の松は二代目だそうでこの場所にあった老松は現在、博物館が保存しているとのこと。
平家追討軍の司令官たる範頼は鎌倉へ戻っていて京都駐在武官たる義経と戦奉行の梶原景時公が老松の下で諸将と軍議を開きます。
元暦二年二月三日 丁巳(新暦では、1185年3月6日水曜日)のことです。
ここで義経と梶原景時公は戦術論で激しく言い争い、ついには抜刀騒ぎへと発展してしまいます💦
諸将が両者を羽交締めにして引き離したと言い、梶原景時公の提言にも賛同する諸将もいたようですが、📖『平家物語』には、誰が景時公の提言に賛同したかまでは書かれていません。
淡路島界隈の潮の流れは速く、その上🌊北方からの強風で樹も倒れるほどに荒れ狂っている気象条件で、舟を自在に操船するには船首と船尾に櫓を付けて、この難局を打開しようと、提言します。
〝淡路の鯛〟と言って、淡路島界隈で採れる🐡鯛は、この激しい海流の中で揉まれながら育っただけあって、身の引き締まった🐡鯛が特徴とされ刺身などで珍重されますね。
そこに反論したのが義経。
義経は戦には時の運や勢いが大切で、今すぐ出港し、屋島へ急襲すべきで、舟の船首・船尾に櫓を付けて操船するのは、最初から退くことも視野に入れた臆病風に支配された者の邪推。
前に進むべき舟に櫓は一つで充分、準備している間に平家に反撃の支度をさせることに繋がるから台風中でも義経僅かな手勢で急襲するから見ておれと、梶原景時公を罵り、最後は両者が抜刀して睨み合うまでの大激論に発展してしまいます😱
判官贔屓の多い日本のこと、盲目的に義経ファンが多い中、敢えて梶原景時公を肩を持つと言うことは勇気がいります😤
この元暦二年二月、北方からの大波は摂津国(けかの大阪市界隈)だけが台風並みの強風ではありませんでした。
駿河国薩埵峠の資料を読んでいて発見しました。
元暦二年二月二日 丙辰(新暦1185年3月5日 火曜日)に、大波で磐城山の麓にて漁師が地蔵菩薩像を拾い、山神の後の許にその地蔵をしばらく安置。
それから🗻富士山の絶景ポイントとして名高い薩埵峠は、磐城山から薩埵峠と名が変わります。
薩埵峠の名の由来ともなった大波はまさに九郎大夫判官義経と梶原景時公が摂津国渡邊に集結した前日にあたり、少なくとも駿河と摂津の太平洋側は台風にも似た🌀大嵐が日本列島に到来していたのでした。
ただでさえ淡路島と四国徳島は鳴門海峡の渦潮で有名で海峡幅1.3km、水位差1.5mに渦巻く渦潮は直径30mにも及びます。
そんな波脚も速く操舵が難しい水路を動力もなく人力の櫓で漕ぎ出すのですから、梶原景時公の提言の方が理に適っていると愚考するのは、私だけでしょうか🤔
義経贔屓の方々がすれば、梶原景時は頼朝にあることないことをチクッて義経の立場を悪くした張本人ということで、歌舞伎の世界でも梶原景時公が悪役敵役で登場することも多いです🥲
梶原景時公を目利きの達人として描く演目は
『梶原平三誉れの石切』
ぐらいなものでしょう。この演目を十八番になさっておられたのが、亡くなられた中村吉右衛門さん。
惜しい方を亡くされました。
改めて、ご冥福をお祈りいたします🙏🏻
閑話休題
義経は結局、二月十六日 酉の刻(午後6時)に船出します。
十三日が春分です。
春分の日の日の入りは現在では17:53分ごろ。
それから三日過ぎていますので、1日に2〜3分ほど日の入りが延びることから、旧暦16日の日没はほぼ18:00頃の筈で、義経らはわざわざ日没を待って、暗闇が広がり始めた日没後に船出したものと思われます🧐
ドラマでは、中村獅童さん演じる梶原景時が
義経の闘いぶりを
「戦神・八幡大菩薩の化身のようじゃ」と、評していましたが、義経の面目躍如の場面です。
歴史にifないと言いますが、私がその場に居合わせていたなら、梶原景時公の提言に賛同して暴風雨一過の後に船手するでしょうけど、皆さんなら如何でしょうか⁉️
逆櫓にちなんで出来たお土産品もあります。
我が家でも、食べてみました😋
抹茶の中に、ほのかに日本酒が香り付けのように、味わいがあり、粒餡も大粒で大人のロールケーキ❣️
とっても美味しゅうございました。
ちょっこっと、一言。
※追伸
Google mapsで最初に示された逆櫓の松の碑の場所、🏢NTT堂島第一ビルの高架下は間違いでした。
反対側にも歩いてみたり、看板やYahoo! JAPANの投稿サイトに登載されていた画像写真からそれらしきビルや通りを不審者さながらにキョロキョロと見て回りました😎
現場は、そこから西へ540mほどJR西日本の福島駅よりにありました。
この界隈で尋ねたところ誰一人ご存知なく、一時は途方にくれましたが、30分ほど👟歩き回り探し求めました。
Google mapsも完全ではないので、よくよく予習してから訪ねるべきと、猛省しました🤣
2022年5月2日のアルクとアプリの小計
総歩数 17914歩
歩行距離 13.6km
消費カロリー 833kcal 🍺ビール4.2杯分