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躁鬱を生きる最強の方法、それは「積極的・能動的ニヒリズム」【双極性障害】

このお話は、躁鬱じゃない人にも通ずると思います。

私を始めとする躁鬱もとい双極性障害の人たちは、気分や気持ちが上がり、異常に思える行動を繰り返して体内のエネルギーを消耗させてしまう「躁」状態と、体内のエネルギーが枯渇して、気分や気持ちが下がってしまう「鬱」状態を繰り返しています。

これの繰り返しで、躁鬱の人たちは周囲の人たちとの関係性を崩してしまったり、自分自身の体調やこころを壊したりしてしまいます。

そのような生活を送っていると、どうしてもこんなことを思ってしまいます。

  • ずっと苦しみ続けているのに、生きている意味はあるのだろうか

  • しんどい生活で人とも離れて、虚しいだけだ

確かに、私たちは虚しい。虚しいだけです。
でも、虚しいことは、自分の人生を諦める理由にはならないのです。

……これが、積極的・能動的ニヒリズムという考えです。

私は、躁鬱と診断されて1年、躁鬱を発症してから8年以上、ずっと苦しみ続けてきました。その末に、現時点でたどり着いている結論の1つがこれです。

今回は、積極的・能動的ニヒリズムをもとに、私たちはどうあればいいのかを考えていきいます。


ニヒリズムとは

そもそも、ニヒリズムとは何なのかという話から始めます。

高校の授業で聞いたことがある人もいるかもしれませんが、ニヒリズムとは、伝統的な価値観や権威を否定し、破壊しようとする思想のことを指します。
もう少し詳しい説明を、下に載せておきます。

(前略)2,000年間ヨーロッパを支配してきた伝統的な価値観や道徳観が崩壊し……(中略)……世界の統一的な秩序が消滅し、人生の目的や意味が見失われるニヒリズムが到来した

山川出版社『第2版 倫理用語集』より

ニヒリズムは、19世紀にヨーロッパで生まれました。
当時は、産業や技術、研究の発展によって、キリスト教の信仰の上に成り立っていた伝統的な価値観が崩されていました。
伝統的な価値観が崩れたことで、世界そのものは無価値かつ無意味なものではないかという考えが現れます。これが、ニヒリズムです。

……世界そのものは無価値かつ無意味である……
これを人々は心のどこかで理解していたのか、19世紀末のヨーロッパでは贅沢や犯罪など、退廃的な享楽に浸る人々が増えていきました。

積極的・能動的ニヒリズムとは

ニヒリズムを唱えた人物としてニーチェが有名ですが、ニーチェはニヒリズムを2種類に大別しました。それは、

  • 受動的ニヒリズム

  • 積極的・能動的ニヒリズム

の2つです。

フリードリヒ・ニーチェ

受動的ニヒリズム

受動的ニヒリズムとは、人生の生きる意味や目的を見失って、刹那的な享楽を求めるなど退廃的な生活に逃げる態度を指します。

先ほど紹介した、贅沢や犯罪など退廃的な享楽に浸る19世紀のヨーロッパの人々がいい例です。

積極的・能動的ニヒリズム

対して、積極的・能動的ニヒリズム(以後、「積極的ニヒリズム」と略します)とは、人生が無意味であることを理解しつつも、伝統的な価値観と戦い、新しい価値を創造しようとする態度を指します。

積極的ニヒリズムを実践する人は、つねに自分を成長させようとし、伝統的な価値観などと戦います。
そうして無意味な既存の価値観を壊し、自ら人生の意味や目的を生み出すことを繰り返して、自己を向上させるのです。

自己を向上させ続けようとする、生への肯定的な関わり方が、積極的ニヒリズムの核となります。

これが人生か、さらばもう一度

そもそも、ニヒリズムの考えでは、我々の世界は無価値かつ無意味なものであるとされています。
ニーチェは、世界は無価値かつ無意味であるとともに、これを永遠に繰り返していると説きます。

無意味な世界は永遠と繰り返されるわけですから、私たちは仮に転生したとしても、同じ運命をたどり続けるのです。
例えると、私のような躁鬱は、躁鬱で苦しみ続ける運命なのです。

そう言われると、「無意味な世界の中で、私たちはどうして生きているのだろう」と思ってしまいます。

しかし、積極的ニヒリズムを実践する人は、たとえ無意味な世界で同じ運命をたどり続けるとしても、自分の運命を肯定的に受け入れようとします

「これが人生か、さらばもう一度」という有名な言葉にあるように、自分の運命を引き受け、耐え抜き、生き抜こうとするのです。

つまり

積極的・能動的ニヒリズムは、まとめるとこんな感じです。

  • 無意味な既存の価値観を壊し、自ら人生の意味や目的を生み出す

  • 無意味な世界で同じ運命をたどるとしても、自分の運命を引き受け、生き抜こうとする

私が積極的ニヒリズムに至るまで

きっかけ

私が積極的ニヒリズムに触れたのは、とあるゲームがきっかけです。

うちのnoteに時々出てくるゲーム『ブルーアーカイブ』です。
この少女、白洲アズサは、作中で時折このような台詞を発します。

「Vanitas vanitatum, et omnia vanitas.」

この言葉は、旧約聖書「伝道の書/コヘレトの言葉」1章2節にある言葉です。
これはラテン語なので、日本語訳を下に示しておきます。

空の空。空の空、一切は空である。

聖書協会共同訳旧約聖書より

ここでの「空(くう)」は、「色即是空」にある「空」と同じものと捉えていいでしょう。ざっくりいうと、儚いものってことです。
つまり、この言葉は、すべては儚いものと言ってるようなものです。
この考えは、ニヒリズム的なものであるといえます。

彼女は過去の境遇(ここはネタバレになるので伏せます)からニヒリズム的な思想を持っています。

しかし、彼女はこれにある思想を付け足します。

引用:https://kentinziru.exblog.jp/32442557/

「たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない」

彼女は、世界の無意味さを自覚しつつも、その上で自分の運命を引き受けて生き抜こうと考えているのです。

彼女のこのあり方は、積極的ニヒリズムに則っていると言えるでしょう。

彼女についてより詳しくまとめてある記事がありますので、詳しくはそちらを参照ください。

積極的ニヒリズムに感銘を受けた理由

私は彼女の思想もとい積極的ニヒリズムに触れたとき、強い感銘を受けました。

というのも、現在の私は自身の無価値さ、虚しさに苦しめられ続けています。

躁鬱が一向に快方に向かわない現状。

このままずっと生き続けないといけないかもしれない恐怖。

人が自分から離れていくかもしれない恐れ。

そして、生きることそのものへの絶望。

……しかし、自身に絶望を持ち、生きる目的を見失ったとしても、自分の運命を受け入れて、生き抜くべきなのです。
彼女に近い言葉で言い表すなら、たとえ躁鬱だとしても、それは生きることを諦める理由にはならない……といったところでしょうか。

自分の運命を受け入れて生き抜き、自分の生きる意味を見出す。
その力強さを、積極的ニヒリズムから感じ取りました。

そして、この力強さは、私を奮い立たせてくれます。

躁や鬱がひどい日々でも、毎日生きることを諦めない。
停滞してもいい、後退してもいい。ただ、今日の最善を尽くす。
そして、一日を終えたら、今日最善を尽くしたと自分を認める。

実は、積極的ニヒリズムに触れ、実践を始めてからまだ数日しか経っていません。
しかし、躁鬱であるという自分を、少しずつですが肯定的に受け入れられるようになってきた気がします。

「最善を尽くさない理由にはならない」

  • 無意味な既存の価値観を壊し、自ら人生の意味や目的を生み出す

  • 無意味な世界で同じ運命をたどるとしても、自分の運命を引き受け、生き抜こうとする

このような積極的ニヒリズムのあり方は、既存の価値観や自分の運命と向き合わないといけないという点で、厳しさを感じる人もいるかもしれません。
特に、躁鬱の人はそう思うでしょう。

しかし、積極的ニヒリズムの実践は、もっと気軽に考えてもいいと思います。

先程も引用しましたが、アズサは作中でこのように語りました。

「たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない」

この言葉にあるように、今日最善を尽くして生きる
積極的ニヒリズムの実践は、それだけでいいのかもしれません。

例えば躁鬱の人であるならば。

  • 毎日ちゃんと早起きして一定の生活リズムで過ごせた

  • しんどい中でも仕事/学校に行けた

  • 動けなくても布団で一日じっとできた

  • 死にたくても、今日一日死ななかった

それだけでも、一日を最善を尽くして生きたといえるのではないでしょうか。

停滞でもいい。後退してもいい。でも、毎日自分ができる最善を尽くして日々を暮らす。
それこそが、自分の運命を受け入れて人生の価値を見出す、積極的ニヒリズムに繋がるのではないでしょうか。

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