飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』は優れた仏教の入門書だ
仏教のお勉強シリーズ。そろそろ入門編はおさらばしたいところだが、本日紹介するのはこれ。
表紙がかっこいいね。
最強のニーチェなど哲学のわかりやすい解説で有名な飲茶氏の東洋哲学入門書。飲茶という筆名はもちろん禅からとったものである。
もう少しばかりなにか仏教の初学者向けのやつなんか読みたいなあと思ってたところ、仏教のアレさんが本書をおすすめされていたのでお買い上げしたというわけである。
私の雑文を読むよりこちらを読んでいただいたほうがいいのだが、せっかくなので私もなにか書いてみることにする。
まずインドのヤージュニャヴァルキヤから始まる。ウパニシャッド哲学の大人物、梵我一如の人である。
彼の哲学は、私とは認識の主体であるが、それを認識することはできないというものだ。認識する主体を認識している主体はなにものかという無限後退を引き起こすからである。このように私とは否定の積み重ねとしてしか把握されえない。
次に時代が下ってブッダである。ヤージュニャヴァルキヤの思想は、認識できない主体があるかのような誤解を招いた。そのような主体すらないということを言わねばならなかったのがブッダである(実際には言ってないくさいけど)。東洋哲学の偉人は、知識として知っていることと、体験として理解することの違いを重くみていた。だからあまりものをはっきり言わず、もって回った言い方をする。まあこれが後世の論争のもとにもなるのだが。
これに関連して、体験として理解するために当時のインドでは苦行がブームだったというくだりは面白かった。もちろんブッダも例外ではなかったというわけである。
次に龍樹。大乗仏教の大立者である。ブッダ入滅後、根本分裂とかいろいろあって混乱した。龍樹はそんな時代に、ブッダよりもさらに徹底して否定を突き詰めて無分別智の境地に至ろうとした。無いということにすら執着しないわけである。いわゆる空の哲学であり、般若心経、色即是空である。
インド編はここで終わって中国編へ。まず孔子、孟子、荀子と儒家の紹介、そして墨子とか韓非子とかがあって、老子である。
老子の無為自然という発想は、無分別智の境地と似たところがある。まだ名前もない主客未分ともいうべき境地であるが、老子は東洋の哲人らしく、わかりやすい形で書を残さなかった。
わかりやすく解説したのが莊子である。分別というもののキリのなさについての解説はめちゃくちゃわかりやすかった。ここだけでも本書を読む価値があるといっていいほどだ。
こんな感じで老荘思想の解説があって、こういう下地があるところに仏教が入ってくるわけである。
舞台は日本に移って、聖徳太子とか、最澄と空海、江戸幕府の政策、親鸞についての記述があるが渇愛、じゃなくて割愛。コンパクトにまとめてあるので面白いけどね。
そしてちょっとだけ中国に戻って、老荘思想と融和するようにして成立した禅についてさらりと解説。これに続ける形で栄西、道元の教えについて記述していく。公案や只管打坐のような禅の修行は、思考を削ぎ落としていく過程であることがわかりやすく説明してあって大変よかった。思考を止めようとするのもまた思考であるからムズい、みたいな話である。
ブッダ(というか上座部仏教)の教えと、日本で普及している仏教はずいぶん乖離しているように見えるが、本書によって一つの筋道でつながったような気がする。
宮元啓一『わかる仏教史』と同じく初心者に超おすすめだ。本記事はコンパクトにまとめられた本をさらに私の言葉でまとめたので、間違ったことを書いている可能性がある。気になった人は是非とも自分で読んでみてほしい。予備知識ほぼゼロで読める。