沼田和也先生の『牧師、閉鎖病棟に入る』読んだ。
沼田和也先生はTwitterなどで有名な牧師さんである。素朴な語り口、まずいったん相手の言い分を受け入れてみる姿勢から、ぐう聖(ぐうの音も出ないほどの聖人)と称されることも少なくない。
そんな沼田先生は精神疾患で閉鎖病棟に入ったことがあって、以前からnoteに少しずつ書いておられた。それをまとめたのものが出版されたというわけである。
私が沼田先生の発信をTwitterやnoteで見るようになったのは、こうした治療を経た後のことで、以前はどんなだったか興味があるが、知らないほうがいいのだろう。
前半は入院の経緯と閉鎖病棟で出会った少年やおじさんたちのことである。明らかに社会に適応できなさそうな人たちばかりだ。閉鎖病棟での生活、人生がとても幸せとはいえないが、彼らに他に行き場はない。ただただ言葉を失うとかない。沼田先生もなにがしかのインタラクションを試みるのだが、、、
ここまでで十分重苦しい気分になるのだが、本番はここからで、沼田先生が閉鎖病棟でいかに己と向き合ったかである。
驚くのは主治医がやたらと介入的というか押し付けがましいというか、積極的なことだ。精神科医ってこんなんなのだろうか。精神科医をしている友人は何人かいるが、彼らが診療している場面は見たことがないのでわからない。
例えば主治医はこんなことを言う。
素人考えで、うつ病の人にこんなこと言って自殺されたらどうするんやと思ってしまうわけだが、閉鎖病棟ではそんな心配はしなくていいのだろうか。
それはともかく「ありのまま」ってなんなんだろうね。もちろん沼田先生だってその疑問に行き着く。
もちろん「ありのまま」の自分などありはしない。なにかしらのバイアスがかかっていたり、糖で包まれていたりするだろう。そこに自分自身や他人への期待が込められているかもしれない。
また他人にありのままでよいというとき、それはたんなる無関心ではないかという疑問は、沼田先生が閉鎖病棟で見た人々への感情とも重なるのではないかと邪推してしまう。ああいった人々になにかを期待するのは難しい。ありのままでいいと思うしかなかったのではないか。
というような「ありのまま」は別として、知的な職業の人ほど現状を素直に認めることができじ、言辞を弄してしまうという指摘は刺さるものがあった。言語や論理を操作する能力は社会の様々な場面で自分を助けてくれるけど、裏切ることもあるよなって思うのであった。
沼田先生も裏切られたのだろうか。わからないけど、なんとか生還して本を出すまでに至られたことは素晴らしい。そして世のどうにもならなさに今も真摯に向き合い続けておられるのだろう。