「夏目漱石『こころ』をどう読むか」読んだ
石原千秋氏編集による漱石の「こころ」の評論集である。
東浩紀、大澤真幸、荻上チキ、山崎正和、作田啓一、石原千秋、小森陽一らのエッセイに加えて、柄谷行人と吉本隆明の講演録、奥泉光といとうせいこう、丸谷才一と山崎正和の対談などなど、お腹いっぱいになれるコンテンツだ。
いくつか論点はあるが、私は前から「明治の精神に殉死」するという先生の言葉になにやら取ってつけた感じがしていたのだが、やはりそれは多くの論者が指摘するところである。
明治の精神といっても色々あるだろうが、漱石の場合は、自己本位という言葉に象徴されるような自我の確立だとか、自由な精神性であったと思われる。それは急速な西洋化と、帝国主義に呑み込まれてしまう。
「こころ」を執筆した頃の漱石はすでに純粋な自我などあり得ないと悟りつつあったようだ。その困難さが先生やKに体現されているという解釈がスッキリするようだ。そして漱石はやがて則天去私とか言い出すのである。
もう1点は、先生のお嬢さんへの恋心について。作田啓一や山崎正和は、それはKが下宿にやってきたことで、三角関係が形成されることにより明確になった、あるいは事後的に見出されたという立場をとる。
私は柄谷行人経由で作田の見方に影響を受けているので、それが自然な読み方と思っていた。
しかし石原千秋によれば、Kが来る以前にすでに先生の愛情は明確であり、さらにお嬢さんも奥さんもそれを認識し受け入れるつもりであったという。そのことが仄めかされる記述は確かにある。こないだ買った先生の反物が、お嬢さんのそれと同じところに仕舞われるのを見たとかそんなわかりにくい記述なのだが。
また三角関係論者は、Kという尊敬すべき人物に、お嬢さんの価値を認めてもらいたかったと述べることがある。しかし、それにしてはKを軽蔑するような発言も散見され、自分とお嬢さんの関係を見せつけてマウントを取りたいという邪な感情の方が大きかったと言えなくもない。
これはこれで理にかなった読解と言えるが、それにしては先生は、K導入後に嫉妬心を激しく燃え上がらせたり、挙げ句の果てに奥さんに「お嬢さんをください」と口走ってしまうのだ。
Kが来る前に、奥さんとお嬢さんの気持ちを知っていたにせよ、叔父に騙された経験から、また型に嵌められようとしているのではないかという猜疑心から、到底プロポースなどできなかったのだ。
とすると私としてはやはり、三角関係が重要な役割を果たしたと考えたくなるのであった。