國分功一郎『暇と退屈の倫理学』読んだ
ワールドカップ盛り上がってますね。全く退屈する暇がない。
というわけでこんな本を読んでみた。
私は増補版を読んだけどKindleがない。まあどっちでも変わらんと思う。
もともと移動しまくってたサピエンスは、いつしか定住への移行した。いつも同じところにいると退屈しちゃう生き物らしい。
進化心理学的なことはまあいいとして、まず暇と退屈を区別する。暇とはたんにやることがない状態で、退屈とはおもんないなあっていう状態である。つまり暇か暇じゃないか、退屈か退屈でないかで、4つの状態があることになる。
暇だが退屈ではないのが有閑階級である。暇じゃないし退屈でもないのは仕事や趣味が充実している人だろう。暇じゃないし退屈なのは労働に追われている人だろう。
ここで仕事と労働を区別することも重要である。雑に言えば前者はやりがいがあって、後者はそうではないみたいな感じ。
さらに浪費と消費も峻別されなくてはならない。浪費は必要以上に受け取ることで、それは満足を伴っている。一方、消費は満足することがない。物やサービスそのものを享受するというよりは、記号を受け取っているだけだからだ。
世の中には美食に耽り、それをインスタなどにアップする人々がいる。その写真を見ると、記号的に消費しているだけじゃないかと感じることがある。
またガジェット沼にはまっている人の中にもそういう人はいる。イヤホンばっかりそんなたくさん買ってもしょうがないやろっていう。私はそうじゃないはず、、、
ここで疎外という概念を引っ張ってくる。疎外とは本来的なものから引き離されているということだ。仏教用語の本来性とは違う。
モノそれ自体を浪費して満足へといたる贅沢が本来的であるのに対して、記号的に消費してし続けるのは、贅沢から疎外されている。本来はやりがいのある仕事から疎外されているのが労働であるともいえよう。
疎外という概念が最近は避けられているのは、それと対になる本来という概念が嫌われているかららしい。それがなにかあるべき姿の押し付けにつながりかねないからだ。しかし、だからといって各人が本来的なものを探究することまで排除することはないよね。排除することでどうしようもない虚無に陥ってしまうなら、それはそれで危険だ。
そして本書の主題であるハイデガーの退屈論へ移行していく。ハイデガーは退屈の3つの形態を挙げている。
第1は期待しているものが得られない退屈である。それがやってくるまでの暇つぶしを見出したり、それを得るための努力をしたりして、退屈をやりすごすことになるだろう。
第2はなにかをしていて退屈。ざっくりいえば気晴らしと退屈が均衡している状態、おおむね人間はこの状態であろう。
第3はなんとなく退屈、これが典型的な退屈ではなかろうか。しかしなにかしら欲しい物や成し遂げたいことを見つけることで第1の退屈へと移行するだろう。なにかをやると決断したら、その決断の奴隷にならざるをえないという点にも留意が必要だろう。
ここで重要なのは習慣である。人間はなんでも習慣化してしまう。なるべく無意識でできるようにするのは生存において必須なのだ。しかし習慣化すると飽きてしまう。。。
ただし反復していると差異が生まれる。毎回同じってことはない。そして差異は刺激的である。私がこんな本を読むのも刺激であるとか、思索の新たな展開を求めているからである。まあその差異もやがては習慣化して退屈になるのだろうけどね。以下無限ループ。
全体としては非常に読みやすいのだが、紛れもない哲学書である。ざっくりと要約してみたが、本自体はけっこう長い。思考の過程を事細かに著してあるからだ。ものを考えることについての勉強にもなる良書であった。