『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

私はここからの一年間で修士論文を書かなくては、卒業ができない。東京大学数理科学研究科数理科学専攻の、修士一年生である。

今回取り上げる書籍『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』は、人文系の著者が書いているのもあって、数学の作法とは異なる部分も多々あった。

では、どのように異なるのか?その「問い」に答えることを通じて、数学の特殊性を炙り出してみる。

反論可能性

経験の浅い論者は、誰もがただちに納得してくれる「正しい」議論を展開せねばならないと考えてしまいがちである。たしかに論文においては自分のアーギュメントの正しさを説得的に論証することができなければならないのだが、しかし、論証なしに誰もが納得するような自明な意見に価値はない。むしろ反論可能であるからこそ、主張はアーギュメントたりうるのである。反論可能性は論文の条件なのだ。

まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 (p. 24)

ここでのキーワードは「正しさ」と「論証」と「自明」だろう。順に見る。

正しさ

人文系における正しさとは何なのか。逆説的ではあるが、純粋に正しいとか正しくないとか言えてしまうような主張は、人文系の範疇にないと言っていいように思える。なぜなら、曖昧さを含んでいる部分に自然言語の「らしさ」があるからである。

同じ主張を見る人によって、「正しい度合い」の違いが当然存在し、同じ人であっても、その度合いは変動する。正しい度合いは「納得」と言い換えても良い。逆に言えば、この変動の余地がないような文字列はもはや「主張とは言えない」。そうでしかあり得ないことなどを主張する場ではないのだ。

自然科学における正しさも、究極的には同じようなものである。ここでは物理学を念頭に置いて考える。人文系と同じように、(実験結果による)検証によって、理論の納得度合いには変動する余地がある。そういうものとして理論は提出される。しかし、自然科学においてはその暫定的であるはずの理論があたかも100%成立するかのように振る舞うことが多い。人文系よりも明らかに多いように思われる。というのも、「自然科学における正しさとは何か?」という問いが属する領域は自然科学ではなく人文系の学問だからである。研究者の心持ちはさておき、一般の人間は自然科学の法則を「自然の摂理」のように捉える傾向が強い。そのように学校で教育をする(あるいは科学哲学について教育をしない)のだから仕方がない。その意味では自然科学は人文系の学問よりも閉じているのかもしれない。その学問の前提そのものを疑うポテンシャルが、学問の内部にないということだ。

数学も、この自然科学に関する議論の延長にあるように思われるかもしれないが、それは違う。まず、事実への理論の適用による反証可能性が(少なくとも論文にした段階で)起こり得ない。つまり、全てが一様に事実であり理論なのであって、正しい度合いの違いが生じないのだ。このことは、「論証」の意味合いの違いを観察するとよくわかる。

論証

先ほどとは逆に、数学的な論証から考えてみる。数学的な論証で許されている操作はあらかじめ特定されており、自由度などそこにはない。その意味で、嘘の入り込む余地がない。あらかじめ決められた箱庭の外に出ようがないからである。本書の言い方を借りて、尚且つ極端な言い方をすれば、示された命題は全て一様に「レベル1」だということである。レベルの間のギャップがないため、論証は説の補強という次元にはない。

自然科学は一旦飛ばして、人文系の学問における「論証」を考えると、その本質的な差異は明白である。埋められない帰納(ないしはアブダクション)によるギャップがあり、それを「補強する」のが論証である。これはいかにして人を説得させるのかという弁論術に通ずる部分があるように思える。

自然科学における「論証」はその中間に位置している。本来演繹操作であるはずの数式の変形においても曖昧さは残っているし、飛躍がある。しかし、その飛躍の仕方にはある程度の制約があり、自由度は比較的狭い。

自明

先ほどまでの議論と照らし合わせると、数学における命題はすべて「レベル1」なので、すべて「自明」という気がしてくる。しかし、これは言い過ぎである。「自明」という概念は飛躍のなさを示すだけではなく、論証のステップ数やトリッキーさをも示す概念であって、そういう意味ではかなり「人間的」である。アカデミックな価値というのも同様の「人間的」なものであるため、数学においてもここは無視できない。非自明な主張をする必要があるのは、数学でも全く同じである。

人文系において面白いと思うのは、「それが本当に自明か?」という観点で研究を行うことができることだ。これは明らかに数学にはない観点である。厳密には、それを疑える時点で数学においては自明ではないので証明が終わってしまう(この証明が数学における証明ではないことに注意)。しかし、人文系の学問においては、むしろそうやってちゃぶ台をひっくり返すことが研究を進めることになるし、原理的にそれは可能である。「レベル1」のレベル1性を疑うことが任意に可能なのだ。

結論として

私はここからの一年間で修士論文を書かなくては、卒業ができない。これはレベル1の事実であり、自明である。

論文では非自明なことを言わなければならない。修士レベルでは現実的に困難なのかもしれないが、心持ちとしてはそうでなければならない。

そして、自明なものをひっくり返すという本書で示されたような手法は数学では取れない気がする。何かしらの新しい領域に着目し、何かしらの新しい結果を得る。得る前まではわからなかったことに挑むのだから、そこには「問い」が生まれることになる。人文系の研究に必ずしも問いは必要ないのかもしれないが、数学においてはやはり必要なのではないかと思う。論文には表立って現れなくとも、モチベの意味で。
「いや、違うだろ、これはこうだろ」という形の、前提をひっくり返すような人文系の研究では、問いは要らないのかもしれない。その否定してやるという強い気持ちがモチベになる。数学ではその方向は難しそうだ。証明されてしまっていたら、大抵の場合正しく証明されてしまっている。否定のしようがない。
モチベなしで、たまたま計算していたら結果が得られたということもあるにはあるだろうが、その計算にも凡人には「問い」的な駆動力が必要そうである。そして、決められた期間で結果を出さなければならないのならそれはより強く必要なのではないかと思う。自分から「問いに行く」姿勢である。

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