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私立恵比寿中学のテーマ・時間・解放の論理

人生で初めて、アイドルを推すという感覚を味わっています。

私立恵比寿中学。通称、えびちゅう(エビ中)。今年結成15周年を迎える10人組のアイドルグループであり、私が今年に入って激ハマりしたアイドルグループです。

可愛いとか歌うまいとかはもちろん、思想的・信念的にも好感を抱いています

というわけで、自分がエビ中にどうして好感を抱くのか分析してこの記事を書いてみたところ、膨らみすぎて卒業論文くらいの長さになってしまいました。

・前半の三章:ライトな分析。歌詞考察多め。全くエビ中を知らない人にも優しい。
・本編:少しハードな分析。二曲の歌詞について深掘り。知らない人には少しキツくて、知っている人はスイスイ読めると思う。
・まとめ:かなりハードな分析。エビ中を知っている人でも別の意味で読みにくいかも。

という感じなので、読みやすそうなところから手を出してもらえれば嬉しいです。特に歌詞分析とかは単体でも独立して読めると思います。

本記事で触れた曲を順に並べたプレイリストです。暇つぶしに聴きながらでも読んでいってください。

「反抗/逸脱」というテーマ

私立恵比寿「中学」とあるように、「中学生」はこのグループにとってかなり本質的な概念です。

一応設定上、メンバーは一生「中学〇〇年生」と名乗ることになっており、たとえば高校2年生のメンバーは「中学5年生」と呼ばれます。私は中学11年生です。

さて、「中学生」と聞いて連想するものの一つに、「反抗期」があります。エビ中において、この「反抗」の雰囲気は多くの楽曲で感じ取ることができます。

たとえば、、、

「大人はわかってくれない」、もうタイトルから反抗期満載です。

絶対わからないよ 私たちのことなんて

流行しか興味無いなんて思ってるんでしょ?

経験したはずよ 同じ様な時代を

忘れてしまうのは大人の都合でしょ?

「大人はわかってくれない」歌詞より一部抜粋

「大人」への反抗が描かれることが多いですが、もっと広く、規律や組織といった抽象的な概念にも反抗を表明しているように思えます。「穴空」と書いて「アナーキー」と読むアルバムがあったりするくらいです。

規律や組織、大人が押し付けてくる論理は一種の「型」です。型とは理想であり、未来です。それを圧倒的現実感とライブ感によって否定・逸脱しているのがエビ中イズムなのではないでしょうか。

以前、アイドル戦国時代という言葉がありました。AKBとももクロで話題が持ちきりだったあの頃のことです。ももクロはエビ中の姉貴分にあたる存在で、当然エビ中を語る上で避けては通れないわけですが、ももクロはこの戦国時代において「天下」を目指すストーリーを完璧に乗りこなし、今もなお現在進行形で伝説を築き上げています。

そんな中でエビ中は、その大局的な構造である天下取り合戦から降りる宣言をしています。

「みなさん、アイドル戦国時代は今日で終わりです。これからのアイドル新時代の幕開けは、私たちエビ中が引っ張っていきます」

当時のリーダーである宮崎れいなの言葉です。アイドル界における一つの玉座を目指すという「物語」を否定しています。物語というのも運営が押し付けた一種の「型」です。やはりそれを否定しようとしているのですね。
これはともすると、物語を否定するというメタ物語になりかねないのですが、この宣言自体は結果的にグダグダに終わりました。物語を否定するメタ物語に失敗するという形で、結果的に物語性の否定に成功しているという逆説的構造です。

この宮崎れいなの発言に関する指摘は以下のブログ記事に詳しく書いてあり、上はそれを私なりの言葉で語り直したもので、オリジナルなものではないことをあらかじめ断っておきます。

このブログは2013年にエビ中ファンによって書かれたものですが、今書いている文章はこのブログの影響をモロに受けています。ここからの文章でも何回か引用されます(そして、私のこの記事はこのブログをある意味で超えていきたいという目標のもと書き始められたものです)。


話を戻すと、理想/規律/物語/計画という大人の都合に対し、エビ中は中学生なりの現実/現在性で反抗しているという構図が見てとれます。

そしてこれはエビ中が目標をハナから目指さないとかそういう話でもありません。校則に反抗する一方で、部活の大会で優勝するという目標のためにしゃかりきに頑張るみたいな中学生性もあります。しかし、現実には優勝できるとは限らないわけで、ある程度の挫折を味わって大人になっていく。
エビ中は一時期かなり「紅白出場」を全面に押し出していた時期があります。しかしそれは未だに叶っていませんし、今は(大晦日にももいろ歌合戦があるという都合もあるのでしょうが)紅白を目標にしているという感じも薄いです。
ここでは意図的な反抗/逸脱のほかに、型にハマろうとするもののそれに失敗してしまうという種類の逸脱も現れている。この点は重要なポイントです。先の宮崎れいなの語りも、メタ物語に失敗してしまったことにより完成する構造だったのでした。


「大人はわかってくれない」のほかにも「反抗/逸脱」が表現された曲はいくつもあります。それらを紹介して「反抗/逸脱」の章を〆ます。

・PANDORA

理性が消える予言
いけないことをしましょう

「PANDORA」歌詞より一部抜粋

わてくし神様でした
飽きたんでやめました

「PANDORA」歌詞より一部抜粋

神様が神様であることをやめて、禁忌を犯すという内容の歌詞ですが、神様=偶像=アイドルという図式で考えると、これはアイドルの偶像性という一種の物語を否定するものであると解釈可能です。ライブ映像では我が推しである星名美怜の星名美怜性が際立っています。

余談ですが、個人的には星名美怜がエビ中の反抗/逸脱というテーマを一番体現しているような気がしています。エビ中はグループとしてあまりアイドルアイドルしていない感じがするのですが、その中で100%アイドルを遂行するということで星名美怜は個性を獲得しているように見えます。
まずアイドルの王道パブリックイメージからエビ中自体が逸脱していて、そんな中で王道にアイドルらしくある/あってしまうということで星名美怜はエビ中内でも逸脱しているという二重の構造です。
さらに、あまり深くは触れませんが、星名は“王道アイドル的しくじり”もしてきた過去があります。それはアイドルとはかくあるべきという規範からの逸脱であると同時に、アイドルの逸脱の仕方としては言ってしまえばテンプレ・王道的で、その王道性が、王道から逸脱したエビ中というグループからの逸脱を実現している、という三重の構造があります。
そんなわけで、僕は星名美怜から目が離せません。余談終わり。

さらに余談ですが、僕は星名美怜の他には特に小久保柚乃と仲村悠菜を推しています。最近の小久保と仲村の配信で出身中学の話題になった際に、チャットで「中学は二人とも私立恵比寿中学でしょ!」的な野暮な指摘が飛び、それに対して小久保と仲村が「あ、そうですね、ちゃんと設定は守らないとね!」的な身も蓋もない返しをする一幕がありました。「設定」とか言っちゃう感じが最高なのですが、このスタンスがまさにエビ中なんだよな、と思ったのでした。ギラギラ反抗するというよりはずっとゆる〜く生意気。小久保と仲村にはその雰囲気が強い印象があり、僕が推す理由を言語化するならこの辺りが肝な気がしています。さらに余談終わり。

・トーキョーズ・ウェイ!

アニメ『マッシュル-MASHLE-』第二期EDです。
Creepy Nutsの楽曲であるOPの「Bling-Bang-Bang-Born」は、マッシュルの主人公であるマッシュ・バーンデッドとCreepy Nutsとのどちらにも重ね合わせられる秀逸な歌詞で素晴らしいと思うのですが、EDの「トーキョーズ・ウェイ!」もある程度そのような視点で捉えられるのではないでしょうか。

「持たざる者が生身で頂点まで登り詰める」という点がマッシュルの世界観とCreepy Nutsとの共通点だとするならば、「テンプレ的世界観で際立つ逸脱性」がマッシュルの世界観と私立恵比寿中学との共通点だと言えそうです。

トーキョーズ・ウェイ!
シュールに生きたいわ
テンプレート回避
オリジナルのストーリー
トーキョーズ・ウェイ!
溢れる人波の中
自分だけの道を
あぁ探しているの

「トーキョーズ・ウェイ!」歌詞より一部抜粋

マッシュルは、徹底的に世界観をハリーポッターに寄せることによって、設定説明の大幅な省略に成功しています。そこに魔法が使えない主人公が異物として現れるわけですが、言ってしまえばこの異物性すらテンプレ的というか、例えば肉体の屈強さで全てを捩じ伏せるというのはワンパンマン的ですし、一話の段階での目新しさはほぼないと言って良いでしょう。しかし、だからこそ設定を受け入れてもらうための時間は大幅に削減でき、早い段階でそこからの逸脱に着目してもらえるというメリットがあります。前フリを割り切って「共有されたテンプレ」にしてしまうことで、オチに辿り着くまでの圧倒的なテンポ感が実現される。

エビ中は「アイドル戦国時代」の文脈の中で、それをある意味で否定しながらアイドルとして活動していたわけですが、これも強烈に前フリが効いています。AKB、ももクロ、スマイレージなどに代表される女性アイドル天下取り合戦の文脈が世間に共有されている中で、ももクロの妹分として活動する。世界観のお膳立てはこれ以上ないほどに完璧で、だからこそその文脈からの逸脱という段階に早くから手を出せる。逸脱のためには当然逸脱される王道的なものが必要で、その王道を作り上げた先輩女性アイドルたちはやはりとんでもなく偉大なのです。

また、なぜマッシュルの曲なのにテーマが「東京」なのかという話題もありますが、これも同じように解釈可能です。「東京」に付与されたイメージはハリーポッター以上に共有可能な文脈と言ってよく、そこで際立つマッシュらの異物性が強調されているわけです。さらにエビ中は「恵比寿」という地名を背負っているため、その意味でも楽曲の世界観に「東京」が選ばれたのは必然だと言えます。

「成長」というテーマ

中学生は「反抗期」であるだけでなく「成長期」でもあるわけで、当然このテーマも避けては通れません。

成長と聞くと、一つの理想があって、そこに突き進んでいくようなイメージが連想され得ます。しかし、そのような理想から溢れてしまう逸脱性を先ほど示したばかりです。この文脈での成長とはどういった意味になるのか。

先の「エビ中論(仮)」を引用します。先ほどの宮崎れいなの語りにも関わってくる部分です。

「アイドル戦国時代終焉宣言」の意味も、一つの基準で競争することではなく、多様性を追求する時代を、エビ中が切り開くという意味です。

これは同時に、運営サイドが意図的な物語を設定することをやめる、ということにもなります。

「アイドル戦国時代終焉宣言」も、それを宣言した宮崎の語りはグダグタになり、さらに、その年の暮れには宣言した本人が引退してしまいました。
つまり、運営サイドが用意した「物語を否定する物語」である宣言は、それを演じたエビ中のメンバーによって否定されることで、意図的な物語の否定は、逆説的にも、完成したのです。

つまり、エビ中のコンセプトは、「意図的・一方向的な成長・成功の物語の否定」であり、「多様性を認めた自然は成長」なのでしょう。
また、それは、「永遠の未完成」でもあり、だからこそ「これから始まるものへの期待感」でもあります。

「エビ中論(仮)」より一部引用(原文ママ)

物語性の否定は、一つの理想に向かって突き進んでいく類の成長を当然否定します。ここでの成長とは、文字通り成長期に起こる類の成長のことであって、身体的に不可避なものです。嫌でも身体が成長してしまうのが成長期なのです。
そしてそれは各々バラバラの成長を遂げます。成長期で皆一律に10cm伸びるなんてことはないわけです。各々の遺伝要因と環境要因によって多様に変化するのが成長期です。

十人十色 色々 
私立恵比寿中学 です!

「エビ中出席番号の歌 その1」歌詞より一部抜粋

まとめると、身体のもつ外部性と個性が(比喩的に)反映された不可避かつ多様な成長、これがエビ中的な成長であると言ってよいでしょう。もう少し踏み込めば、理想とか規律とかは理性的/言語的なものであって、そこから逸脱する・してしまうのも我々の身体が言うことを聞かないからです。身体とは我々にとって一番近くにある現実であり他者です。その意味で、エビ中は身体の他者性を体現していると言える。

そう考えると、成長という言葉よりも変化という言葉で捉え直した方が誤解を生まないかもしれません。変化はするんだけれどもそこに価値づけはなくて、ただ単に変わるだけ。そう捉え直すとエビ中は確かに「変化」のグループでもあります。メンバーの変遷然り、楽曲の方向性然り。そしてそれは全てが狙ってなされたものではなく、運命に振り回されているとでも言えるような、とても複雑な変化の歴史があります。その歴史には、「成長」という楽観的な言葉で語ることが絶対に適さない類の、人間身体の他者性(予期できなさ/どうしようもなさ)の極限が含まれています。あえて明示的には書かないので気になった方は調べてみてください。私は新規だとか古参だとかの分類が基本的には嫌いですが、この点に関してはどうしても後追いで語ることを躊躇してしまいます。


ここでは「成長」について考えることで、エビ中の個々のメンバーの多様性と、グループとしての変化の歴史に着目しました。エビ中は成長期に伴う変化を最初からコンセプトに含んでいるため、「あの頃のエビ中から変化してしまったからもうエビ中じゃない」ということが原理的に起こり得ない仕組みになっています。
そして、目標達成に失敗したり、意図通りの成長ができなかったとしても、その過程で何かしらの変化は起きているはずで、その変化を素朴に肯定(良い悪いではなく存在をありのまま認める)する態度がメンバーとファンとの間にあるような気がします。結果ではなく、過程を。これは現実/現在性でもって理想から逸脱するという前の章での分析とも通ずる部分があります。


成長・多様性・変化に関連する楽曲をいくつか紹介します。

・頑張ってる途中

タイトルと、サムネイルに表示された歌詞で、まさしくこの章で話した内容を表現した楽曲であることがわかると思います。本当に可愛くて、大好きな楽曲です。

注目したいのは一番のAメロの歌詞です。

いつも変わらない 笑顔のままで
迎えてくれる そんな街だから
今も こうして 昔のままで
変わらずいてくれる それが嬉しい

「頑張ってる途中」歌詞より一部抜粋

ここでは「変わらなさ」について歌われます。変わろうとしている自分たちと対になる形で街の変わらなさが強調されている、と読むことももちろんできますが、ここではもう一歩踏み込んだ解釈をしたいと思います。

まず、身も蓋もない言い方をすれば、街だって細かい部分は変わりつづけているに決まってるわけです。しかし、その街がその街であることは依然として変わらない。まさにそのことに安心しているのですね。

このことは、人間と細胞との関係を考えるとわかりやすいと思います。何年か経つと人の細胞はそっくり入れ替わるそうですが、その人がその人であることは依然として変わらない。そういった同一性です。

同一性とは、ある意味の究極まで突き詰めると「それがそう呼ばれている」ということによってのみ保証される概念だということがわかります。部分の一致に還元され得ない。

エビ中は変化しつつある主体としてこの曲の中でも描かれますが、その一方で、どんなに変化してもエビ中はエビ中であるという根本の変わらなさはあって、その安心感が「街」の変わらなさとして比喩的に表出している。そのような解釈ができると思います。

ところで、それがただそれであるという理由のみで肯定するような感情のことを愛と呼ぶのだと私は思っています。「あなたが世界を敵に回しても私だけは理由なく味方だ」的な感情のことです。エビ中に対して、そして各メンバーに対して、そのように思えるファンがしっかりとついているからこそ、エビ中側も安心してどこまでも変化し続けられるのだと思います。そのようなファンでありたいものです。ファンはよそに迷惑をかけない盲目であれ

・サドンデス

岡崎体育の産んだ天才的楽曲、サドンデス。初めて聞いたときは爆笑し、そこからエンドレスリピ。岡崎体育のあの感じが好きなら聞いて損はしません。ちなみに、MVは岡崎体育のキャリアにおける初監督作品です。

ダンスサドンデスでエビ中におけるビーナスを決めることとなり、決勝の真山と廣田が決着をつけようとするが、結局エビ中は横一列であることを再確認し、全員でラスサビを歌う。そんな歌です。

「私立恵比寿中学にビーナスは必要ないわ」
「そうよ、私たちは全員横一列」
「同じ歩幅で歩んできたじゃない」
「楽しかった事も嬉しかった事も、一緒に喜び合った」 
「辛いときも苦しいときも、一緒に乗り切ってきた」
「最後のサビも、みんなで一緒に歌おう」
「うん、立ち上がれ私立恵比寿中学ー!」

「サドンデス」歌詞より一部抜粋

これはまさしく、エビ中の各メンバーが単一的な軸における「成長」で競い合うのではなく、それぞれの個性をバラバラの方向に伸ばす方向で進んできたことが反映された歌詞です。

エビ中は元リーダー宮崎れいなが辞めてから、リーダーという役職自体を置いていません。センターも楽曲の中で固定ではないため、フォーメーションが一曲の中で常に目まぐるしく変化します。エビ中におけるメンバー間の対等性が「横一列」という言葉で端的に表現されています。

「中間的」というテーマ

中学生は「思春期」の象徴でもあります。思春期とは、子どもと大人の中間的存在であることに振り回される期間のことで、その期間に独特の不安定さがあります。「思春期」という言葉は少し他の文脈を想起させるので、以下では単に「過渡期」とでも呼ぶことにします。

型から逸脱し、変化しつつづける。そんな主体としてエビ中を考えてきました。型を押し付ける大人に対する子ども的な反抗という構図をすでに提示していますが、同時に大人になりつつある自分にも気づいており、その子どもと大人との狭間で生じるモヤモヤが繊細に表現されているように思います。決して小学生的な無邪気な反抗だけではなく、独特の仄暗さ(仄明るさ)がたしかにある。


ここでは曲の歌詞とともに話を展開したいので、早速曲紹介に入ります。

・自由へ道連れ

元は、椎名林檎の楽曲です。2018年にエビ中がトリビュートアルバム「アダムとイヴの林檎」にてカバーしています。

このYouTubeの動画でエビ中を知ったという人も多く、日本の女性アイドルの歌唱力を見くびっていた、とエビ中を褒めるコメントが多数見られます。
エビ中を知らないという方は頼むからこの動画だけでも観てください。後悔させません。

当然、この曲はエビ中のことなど全く念頭に置かずに作られたわけですが、歌詞を見ると、エビ中が歌うのにこんなにふさわしい曲があるのか、と驚きます。

混沌(カオス)と秩序(コスモス)の間で待って居るよ

「自由へ道連れ」歌詞より一部抜粋

破壊と建設の間で立って居てよ

「自由へ道連れ」歌詞より一部抜粋

今ならば子供にも大人にもなれる

「自由へ道連れ」歌詞より一部抜粋

気分と合理の両方で迷って居るよ

「自由へ道連れ」歌詞より一部抜粋

まさにこの章で述べている「中間性」というテーマが提示されています。

デビュー当初のエビ中は混沌/破壊/子供/気分の方の象徴と捉えて良さそうですが、この曲をカバーした2018年のエビ中は、まさに子どもと大人の中間的存在であって、当事者性が強く表れたカバーになっていると感じます。

「自由へ道連れ」。自由と聞くとポジティヴなイメージが想起されがちですが、そこへ「道連れ」するわけです。ここに自由のネガティヴな面を垣間見ることができます。
自由であるということは何にでもなれるということですが、同時に一つのところに安住できない不安定さも引き受けることになります。

生きている証は執着そのものだろうけど
放たれたい
相反する二つを結べ
自由はここさ
本当の世界のまん中

「自由へ道連れ」歌詞より一部抜粋

ここで生=執着という構図を提示しています。ということはその対極は死=自由ということになりそうです。生きたまま自由になろうとすると先に見たように不安定さを受け入れなければならず、苦しい。ならば究極的な自由=死を目指すのか?

そこで「相反する二つを結べ」と歌われます。この「二つ」を究極的な対立である生と死のことであるとするならば、これは、不安定さ(とそこからやってくる希死念慮と)を排除せず、それらと共存しながら生きていくという人生観の提示という読みが可能です。そして、それが「本当の世界の真ん中=中立=真の自由」である、と。あくまでもこれは意志の問題であり、死者そのものが自由ではないということではありません。念のため。

真の自由は葛藤をあるがままに受け入れる姿勢にある。エビ中からはその葛藤が垣間見えるため、この曲はリアルに響きます。

また、現在の10人体制では、姉メン5人と妹メン5人で年齢差が大きく、グループ内で大人と子どもの構図が出来上がっています。カバーした当時は各メンバーの中間性が表れていましたが、そこから6年が経過し、当時とはまた異なるグループ全体としての中間性/不安定さが、今のエビ中にはあります。
歴史と若さ、その両方を兼ね備えた2024年のエビ中に魅了されてやみません。

・ポップコーントーン

最初に「反抗/逸脱」の章で紹介した「大人はわかってくれない」のアンサーソングです。「大人はわかってくれない」が中学生性の表現だとするならば、「ポップコーントーン」は高校生くらいの感じでしょうか。少し長いですが、二曲の歌詞をそれぞれ並べてみます。

大人は何もわかってない
私たちが意外と
現実をちゃんと見られる様に
つけまつ毛で瞳を大きくしてることも
だって泣きそうな顔していたら
なんだかんだ心配させるでしょ?
痛くも痒くもないフリして
はしゃいでる私たちだから

ずっとずっと 信じてね
ずっとずっと ああ

「大人はわかってくれない」歌詞より一部抜粋

だから伝えたいことがある
私を信じてくれてありがとう
声にならない声で誓うよ

頭からポップコーン弾けてしまう
夢みたいなことはそこから始まるのだろう
もやもやしているでも何かしたい衝動
うん 諦めてしまうことに意味なんてないの
いつだってそう 明日へ

くだらないことを考えてしまう妄想
ほんとはもっと何かが出来るはずなんだ
あー 前より少しは大人になったけれど
そのぶん少しだけ世界が怖くなった

「ポップコーントーン」歌詞より一部抜粋

どちらも思春期的な表現が多いのですが、「大人は〜」の方は、「子どもは子どもなりに考えているんだ!」という雰囲気なのに対し、「ポップ〜」の方は「大人の世界の怖さが見えてきたことによるモヤモヤ」が強調されています。

一言で「思春期」と言っても、それは子どもでも大人でもない期間の全体を指す言葉であるため、その指し示す範囲は広いです。一般的に言って、「〇〇と××の間」を指し示す言葉はそれだけではほぼ何も言っていないに等しいというか、ただ「その他」を括っただけです。括るとそれだけで安心してしまうのが人間の性ですが、括られた側のリアルは切り捨てられます。その雑な括りに言葉でどう対抗するのか。この二曲はその問いに対する一つの答えを提示しているように思います。括りの中にある微妙な差異を、これまた一言で片付けずに言葉を尽くして伝える。もちろん語りの細かさには際限がなく、どこまで行っても「雑さ」の加害性は消えないのですが、だからと言って語ることを諦めるわけではない。できる限りの言葉で伝える。限りあることに絶望するのではなく、今できる限りを尽くすという姿勢は、次章(本編)の補助線になると思います。

本編:私立恵比寿中学と円環の時間モデル

ここからが本編です。前段にお付き合いいただいた方は本当にありがとうございます。ここからの話のぶっとい補助線になっているため、読んでいただいた意味は一応あるかと思います。

元々この記事は、『アイドル論の教科書』という本に触発され、この本の延長線上でエビ中に絞った分析を試みたものです。この本では、文系と理系の予備校講師がそれぞれの観点からアイドルについて分析しています。その中から、

  • アイドルと「卒業」について考える ---アイドルの「時間」について(文系)

  • アイドルの"数学"を学ぶ ---アイドル現象にはまる理由を数学的に証明せよ(理系)

の二講を参考に、エビ中についての分析を進めたいと思います。

『アイドル論の教科書』について書評も書きました。参考までに。

エビ中は「円環的な時間」を生きる 〜『時間の比較社会学』を参考に〜

まず、『アイドル論の教科書』におけるアイドルと時間モデルの分析を要約します。

要約:
AKBとももクロはよく比較される二組だが、グループから離脱する際の取り扱いに面白い差異がある。AKBでは「卒業」、ももクロでは「脱退」と呼ばれるのだ(Hiroto的注意:この本は2016年に書かれたため、2018年の有安杏果のももクロ「卒業」を知らない。有安がなぜ「脱退」ではなく「卒業」と称されたのか、その議論も面白いだろうがここでは深入りしない)。
ももクロの「脱退」は予期され得ぬもので、AKBの「卒業」は予期され得る。この呼称の違いは、グループとファンの間に共有された時間モデルが違う、という仮説で説明される。ももクロには終わりが設定されていない、無限に延びる「直線」的時間モデルがふさわしい。一方で、AKBには終わりが漠然と予期されている、有限的な「線分」的時間モデルがふさわしい。
真木悠介『時間の比較社会学』では、社会学的な4つの時間モデルが挙げられている。「直線」「線分」「円環」「反復」の4つだ。上に挙げた「直線」「線分」以外では、「円環」にはエビ中が、「反復」にはさくら学院が対応づけられる。
もちろん離脱システム以外に関する時間モデル分析も可能で、「夢」という目標は一つの終わりを示唆するために線分的であるとか、多様な方向の時間モデル考察があり得る。(要約終)

ここでは、『時間の比較社会学』を参考に、4つの時間モデルについて、『アイドル論の教科書』よりも少し踏み込んだ整理をしたいと思います。

・反復的な時間

質か量か→
可逆か不可逆か→可逆

反復的な時間は原始共同体において共有されていたと考えられる時間モデルで、近代的な我々の感じるような「永遠と対比した際の我々の人生の虚しさ」や「過去が無きものとなってしまうことへの虚しさ」とは無縁のモデルです。
まず、時間を量として捉えることがありません。したがって、「永遠に延びる時間直線の中で、、、」みたいな前提からして我々とは共有不可能です。日が昇って日が沈む。その繰り返しこそが質的な時間了解の全てで、それで事足りる世界観です。また、時間を量的に捉えることと時間の永遠性を前提することとをほぼ等価とするならば、この時間モデルは時間の永遠性をわざわざ前提することがありません。
そして、当然日はまた昇るのですから、「過去が消え去っていく」みたいな感覚もありません。我々は、一回的なもの(例えば私の人生)が重要だと考えていて、繰り返されるものはその背景に素材として隠れています。対して彼らは、繰り返されるものこそが重要だと考えていて、一回的なものはその素材に過ぎません。この感覚は我々とは真逆のものです。

『アイドル論の教科書』では「さくら学院」というグループがこの時間モデルに位置付けられていました。このグループは「成長期限定ユニット」であり、各メンバーが中学3年生の3月に卒業することがあらかじめ決まっているグループです。コンセプトの主眼が、各メンバーの一回性の活動ではなく、代替わりしていく「学院」の存続にある点で、可逆性に重心が置かれています。また、最初から期限が決められているという意味で、有限的です。永遠性はそこではフリにもなっていません。よって質的(≒有限的)です。

・線分的な時間

質か量か→
可逆か不可逆か→不可逆

線分的な時間はヘブライズムで共有されていた時間モデルです。時間を量的なものとみなさない点では反復的な時間モデルと同様ですが、「始まり」と「終わり」が(質的に)想定されている点において、時間の不可逆性があらわれています。
「線分」というといかにも量的ですが、これは比喩です。彼らは時間を線分として捉えているわけではない。あくまでも我々の感覚に無理やり当てはめると線分的(端点がある)ということです。ここから時間が量として捉えられるようになると、近代的な直線的時間モデルへと変化します。

『アイドル論の教科書』ではモーニング娘。やAKB48がここに位置付けられています。先も見たように、「卒業」システムが「終わり」を予期させる点において不可逆性があらわれています。時間の一方向性と言い換えても良い。
一方で、「終わり」の設定は永遠性(≒量的時間)を否定します。永遠性がフリになっているとかでもなく、端的に終わりが示唆されているわけです。

・直線的な時間

質か量か→
可逆か不可逆か→不可逆

直線的な時間は、他でもない我々が共有している時間モデルです。永遠なる時間直線の中で、過去から未来の一方向を運命付けられた我々。時間を量的に捉えることは、永遠性による苦しみをもたらしますが、そのおかげで地球レベルの時間共有が可能となりました。朝・夜くらいの質的な把握では株式取引はできませんね。

『アイドル論の教科書』ではももクロがここに位置付けられています。「脱退」という呼称は、永遠性が前提されていたことの裏返しであり、その意味でももクロは永遠の時間(≒量的時間)を前提しています。また、早見あかりが抜けたことで、ももいろクローバー「Z」になったわけですが、この「Z」は究極・無限を表しています(水木一郎談)。名前からも、ももクロの永遠性がより強固に打ち出されたのです。
それでは可逆性についてはどうか。ここについてはエビ中との比較で語りたいので後述します。

・円環的な時間

質か量か→
可逆か不可逆か→可逆

円環的な時間はヘレニズムで共有されていた時間モデルです。反復的な時間と同様に可逆な時間モデルですが、時間を数量として抽象化したところに原始的な反復的時間モデルとの差異があります。近代的な世界観では時間の数量性は自明とされているため、円環的な時間の可逆性に着目されることが多いですが、時間を数量として捉えるということそのものにも充分特異性があります。これは交易による貨幣(抽象化された数としての価値)の発祥と並行しているようです。ここに時間の不可逆性が加わると、近代的な直線的時間モデルとなります。「線分(ヘブライズム)」と「円環(ヘレニズム)」は、互いに対極に位置する「反復(原始共同体)」と「直線(近代)」の、異なる形での中間モデルとして存在していることがわかります。

さて、ここに位置付けられているのが我らが私立恵比寿中学です。エビ中のコンセプトは「永遠に中学生」だったのでした。ももクロよりも色濃く「永遠性」が前提されています。しかし、永遠に「中学生」なので、これは我々の近代的時間モデルを逸脱しています。例えるならサザエさん時空のようなもので、ここにエビ中の反復/可逆性が現れています。ももクロはそういった設定とは無縁であるため、消極的に我々と同様の一方向的な時間モデルを採用しているととりあえずは言ってよいでしょう。

ももクロが切り拓いた直線、お菓子を食べながら進むエビ中

ここからは、『アイドル論の教科書』の議論を引き継ぐ形で、ももクロ(直線的時間モデル)とエビ中(円環的時間モデル)の比較に絞って話を進めます。ここからが本記事独自の内容になります。

ももクロは、武道館→紅白→国立競技場(女性グループ初)→...という輝かしい階段を上ってきて、今があります。もちろんその中で紆余曲折もあるわけですが、その紆余曲折すら伝説として語られてしまうというか、ファンによって物語化されている印象があります。これは誰が推し進めてるとかの話ではなく、そういう雰囲気があるのではないかという(エビ中ほどももクロに詳しくはない)私の主観です。
この輝かしい歴史の中における下積み量の大きさがミソだと思っていて、その下積みの泥臭さがかえって物語化(伝説化)にふさわしい側面があるのではないかと分析します。

今までにないアイドルの形を、わかりやすい目標をじっくりと一つ一つクリアしていくことで切り拓いてきたももクロ。それを物語化/伝説化する二次的な雰囲気も含めて、前へ前へと突き進む力強さを感じます。紆余曲折も泥水も全てが伝説として束ねられた、未来へ向かう太い太い直線。その断面には実がぎっしり詰まっている。私の中でももクロはそのようなイメージです。

ここで、あるnote記事を引用する形で、理事長(ももクロエビ中の属する事務所のえらい人)の発言を紹介したいと思います。ももクロと対比したエビ中の分析につながる発言です。

理事長はかなり昔のツイートで、ももクロ姐さんとエビ中を比較して、「ももクロは自分で道を作ってゆくスタイル。エビ中は作られたその道をお菓子とか食べながら進んでゆくスタイル」と評しました。

直前にリンクしたnote記事より一部引用

残念ながら理事長の元ツイートは発見できなかったため、孫引きにはなってしまうのですが、これはかなり的を射た発言だと思います。

追記:コーさんがコメントにて直々に元ツイートを貼ってくれました!ありがとうございます!

エビ中の前にはすでにももクロが歩んだ道がありました。そのおかげもあり、ももクロに比べてかなり下積み期間は短い(これは下積み量の欠如を意味しない)と言われます。事実、デビューから1年7ヶ月でさいたまスーパーアリーナ単独公演を行なっており、これは日本人アーティストとして最速です。
しかし、ももクロが歩んだ道があまりにも偉大であるが故の壁もあります。前置き部分でも述べましたが、エビ中は紅白出場の目標を果たせぬまま今に至っています。すでに道があることの甘さも酸っぱさも味わっている。

ということで、意図とは無関係に、とくに初期のエビ中はももクロの影響下にあったと思います。道をそのまま歩むにしても逸れるにしても、目の前にすでに道はあった。このことが、ここから詳しく見ていくのですが、エビ中の時間モデルが直線でなく円環であることに関連してきます。

ヒャダインから見たエビ中 〜I cannot be SAKURA〜

ヒャダイン。またの名を前山田健一(逆か、、?)。ももクロとエビ中の楽曲史を語る上での最重要人物の一人です。

「行くぜっ!怪盗少女」「Z伝説 〜終わりなき革命〜」などのももクロを代表する曲を数多く手がけ、エビ中とは初オリジナル曲「えびぞりダイヤモンド!!」の提供から定期的に関わり続けています。

そんな両グループと深く関わっていたヒャダインが作ったエビ中楽曲の一つに、「梅」という曲があります。

春といえば桜。そんな風潮の中で、梅は密かに力強く咲いて、散りゆく。その儚さをエビ中が歌い上げます。
メジャーデビューから3作目のシングル表題曲で、なぜ桜ではなく梅なのか。
有名で、なおかつほぼ正解のような扱いがなされている解釈として、「桜=ももクロと対比して、梅=エビ中としての独自の存在を示した曲」というものがあります。
ここでこの解釈と異なる新説を挙げられたら正直アツいのですが、さすがにこの解釈はそうだよなぁとしか思えません。新規性がなくて申し訳ないですが、以下、この解釈に乗っかる立場で話を進めます。

花見といったら 桜
卒業式 桜
ああ いつも 二番手

ワタシモ 咲イテ イマス
香リハ イイ香リ デス
ネェ 愛シテ ネェ 気付イテ
I cannot be SAKURA

「梅」歌詞より一部抜粋

二番手であり、一番手の桜にはなれないこと。その部分だけ聴くとネガティヴな印象ですが、聴いてみると全くもってそんな曲ではないことがわかると思います。一番を目指すという方向ではない、それそのものとしての多様な魅力に目を向ける。前置き部分で述べてきたエビ中イズムにつながる思想が示されています。

この曲によって明確に、ももクロが切り拓いた道からの逸脱のイメージがファンとメンバーとの間で共有されたのではないでしょうか。この点において、エビ中は直線(=ももクロ)から斜め方向に逸れた

そして、その脱線と「永遠に中学生」というコンセプトが共振し合い、脱線の先で矢印が円環として閉じるような時間モデルが確立された。このように捉えることができるのではないでしょうか。以下の図のようなイメージです。

「梅」×「永遠に中学生」→円環

直線的時間モデルからの決別の契機を明確に示す曲としての「梅」。ももクロも間近で見てきたヒャダインだからこそ描けた世界観です。

高橋久美子から見たエビ中 〜変わるけど変わらないよ〜

高橋久美子。チャットモンチーの元ドラマーです。これまでエビ中の楽曲の作詞を三曲担当しています。

高橋久美子がエビ中に初めて詞を提供した楽曲、「朝顔」。「梅」で提示された直線からの離脱としての円環は、この曲によって新たな様相を呈します。

小6のときに少年と「23歳になったら結婚しよう」と約束していたことを急に思い出したが、、、というストーリー。少し長くなりますが、歌詞の分析を始めます。

まずはイントロの朗読部分。

アパートのベランダ、深夜に朝顔が咲いてます。
ねえ、太陽じゃないんだよ、これは蛍光灯の光だよ
だまされてるとも気づかないで、
それでも、綺麗に綺麗に綺麗に、
咲いてくれて ありがとう。

「朝顔」歌詞より一部抜粋

初手から「ナナメ」な曲であることがわかります。高橋は、チャットモンチーとして活動を始める時期の自分自身と重ねて歌詞を書いたとインタビューにて語っています。

重ねてしまって申し訳ないんですが、ちょうどチャットとしてデビューするかしないかぐらいのときだったかな。フリーターをしながらバンドを続けてた時代だったと思うんですけど。これくらいちょっとひねくれてるというか、「それでも私は私の道を行くんだ」っていう強い自我を歌ってくれたらいいなって思いました。それで、「まっすぐでもないけど、自分は自分の道を行く」という物語を書きました。明るい曲調だからこそ、少し毒や棘みたいなものを秘めた歌詞にしていったんです。

大久保和則『DIVE INTO EBICHU MUSIC』より一部引用

「まっすぐでない」ことが一つのテーマになっている点で、先の「梅」の分析の延長にこの曲が位置していると解釈できます。エビ中には、やはりどこかずっと毒気と仄暗さとがある。

次に、三つのサビ部分を順に一気に並べます。

今宵も朝顔 元気に
ベランダで笑ってんだ
私の痛みを吸って咲いたような

約束を破ります
私 まだまだ咲くね
太陽はいつも 心の中にあるから

「朝顔」歌詞より一部抜粋

今宵も朝顔 元気に
街灯に笑ってんだ
ルールなんてないから自由に咲け

約束を破ります
夢は変わり続けるさ
今の自分を真っ直ぐに見つめていよう

「朝顔」歌詞より一部抜粋

今宵も朝顔 元気に
ベランダで笑ってんだ
私の痛みを吸って咲いたような

約束を果たします
変わるけど変わらないよ

今の自分を真っ直ぐに見つめていよう

「朝顔」歌詞より一部抜粋

「ルールなんてないから自由に咲け」、まさにエビ中の逸脱性そのものです。絶対的枠としてのルールなどなく、あくまでもルールは逸脱のためのフリなのです。

・「約束」について
約束とは、最初に述べた少年との結婚の約束のことです。そして、前の二つでは「約束を破ります」と歌われます。約束とは一つの「型」で、そこからの逸脱が示されています。前置き部分を読んでいただいた人にはさすがにくどい分析だと思いますが。ここまでは「梅」と同様ですね。

しかし、最後のサビでは一転して「約束を果たします」と歌われます。これは一体どういうことなのか。この歌詞の解釈には、続く歌詞「変わるけど変わらないよ」が補助線となります。

・「ただそれがそうである」という同一性 家族と訂正可能性
ある名称で呼ばれるものの同一性は、部分に還元されません
。前置き部分を飛ばした方には唐突だと思うのでもう少し補足すると、例えば私は、日本人で、右利きで、O型で、、、という性質を持っています。しかし、それらを列挙したところで私を特定することはできません。それは単に変数が多いということではなく、我々の言語規則上そうだということです。私が純ジャパじゃないことが例えば発覚したとして、私は私です。「私が純ジャパじゃない」と言語的に表現できている時点で、純ジャパであることは私の本質的構成要素ではありません。同様にして、私を私たらしめる究極的な本質情報など、私である(私と呼ばれている)ということ以外のどこにもないのです。

話を「朝顔」に戻します。二番のサビで「夢は変わり続けるさ」と歌われます。ここまでであれば、単に「昔の約束は破られて新たな人生の一歩を踏み出したのだ」的解釈で終わりなのですが、ラスサビでは「変わるけど変わらないよ」と歌われ、「約束は果た」されるのです。一見矛盾するこの主張は、上の同一性に関する記述を踏まえると解釈可能です。この曲の中で、夢/約束の内実は確かに変わっています。変わっているのですが、あの頃の夢/約束から今の夢/約束へと変化したのではなく、あの頃の夢/約束が、あの頃の夢/約束のまま、その内容だけを変えているのです。この違いは微妙なようですが、あまりにも重要です。

過去は、それがそれであることを変えないまま、解釈によって遡行的に訂正可能である。
東浩紀『訂正可能性の哲学』で繰り広げられるような主張を自分なりに言い表してみました。『訂正可能性の哲学』では、この訂正可能性という概念が「家族的類似性」などと絡めて詳細に語られます(ちなみに、私立恵比寿中学のファンは「ファミリー」と呼ばれます。このあたりの概念的親和性についても私は語りたくて仕方ないのですが、「逸脱」しすぎるのでここでは割愛します)。私はおそらく無意識下でもこの書籍に大きく影響を受けているため、本記事の副読本として、というか普通に面白すぎるのでぜひ読んでみてください。

あの頃の夢/約束が、その頃のもののまま遡行的に訂正されうる。言い方を変えると、ただ逸脱するだけでなく、過去が過去であるままに新たに立ち現れる。この意味において現在と過去は一体となり、やはり円環をなすのです。
「朝顔」で示された訂正可能性は、エビ中の円環モデルと不可分の関係にある

一方で訂正可能性という観点は、今まで述べた円環モデルに修正を迫ります。直線からの逸脱と「それがそれのまま」という変わらなさとが円環モデルを形成すると分析してきたわけですが、逆に言えばどうなろうとも「それがそれのまま」であることが確約されたのならば、その内実は今まで以上にラディカルかつ多様に変容(訂正)可能です。そして、円環モデルではその変容可能性を積極的に表現できていない、と考えます。

ならばモデルをどのように変更すればよいのか。「朝顔」、ヒントはそのタイトルですでに示されていたのです。

小学校の「あさがお」を思い出せ S^1の被覆空間としての実数直線

小学校であさがおを育てたことはありますでしょうか。育てたことのある方はどのようにあさがおが育っていたか思い出してみてください。育てたことがない方も安心してください。参考リンクを貼ります。

リンク先にすぐ出てくる男の子の写真を見てください。この植木鉢と支柱、非常に懐かしいです。育てたことのある方は、こんな感じであさがおを育てたのではないかと思います。

見ればわかるように、あさがおは支柱に巻き付く形で上に成長していくんですね。巻きつきながらその回転は同一平面に収まることなく、変動し続ける。これは円環モデルの「支柱」方向への移動を示唆します。

数学に疎い方には逆効果な気もしますが、数理的なモデルを画像で示しておきます。「朝顔」で提示された訂正可能性を積極的にモデル化したものが、下の「新円環モデル」です。「支柱」の方向への変化が明示的に表現されています。

「梅」的円環から、「朝顔」的新円環へ
実数直線Rによる単位円周S^1の被覆のグラフが、「朝顔」的新円環となる

一応思い出しておくと、この記事は『アイドル論の教科書』における「時間モデル的アイドル分析」と「数学的アイドル分析」とを参考にして書かれていたのでした。ここまでの分析は「時間モデル」に偏りすぎていますが、ここからは「数学」的記述の助けも借りながら、話をまとめにかかりたいと思います。

なぜ急に数学なのか?と思った人もいるかもしれません。
私はももクロとエビ中の比較に絞って話を進めてきたのでした。そして、ももクロの直線的時間モデルもエビ中の(新)円環的モデルも、質か量かで言えば量的時間だったことをすでに見ています。ももクロとエビ中は、時間を数として認識するモデルを採用していることによって特徴づけられているのです。この観点から、この二つのモデルに関して数学的に分析することは自然なことと言えるでしょう。

おまけ:「朝顔」における回転のイメージ

この話をすることで、まとめの内容につながる重要な観点が導入できるのですが、話の流れ上どこにも入れられなさそうなので、ここにおまけとして置いておきます。飛ばしても結構です。

「朝顔」の歌詞において、二番までは「梅」と同様に逸脱性が表現され、シンプルな円環モデルで解釈できます。そして、ラスサビにおいて示される「訂正可能性」が、根本の変わらなさとともにラディカルな変容可能性を提示しており、これは新たなモデルで解釈するべきです。そういった読みをここまでしてきました。

この二番までとラスサビとの差異が、「回転」のイメージとして歌詞中で端的に表されているのではないか。そう思えてならないのです。

詳しく解説します。まず、一番のサビ前部分。

毎年行った 夏祭りのくじ引き
ぐるぐる回しても 金色は一度もでない
(残念賞)

「朝顔」歌詞より一部抜粋

「毎年」「ぐるぐる回しても」というように、ここでは円環の反復性と回転のイメージが示されています。そして毎回「残念賞」であったと嘆くわけですが、これはくじ引きの結果だけに着目して異なる年の夏祭りを全て同一視する考え方です。何等なのかという「量」に関心が向かっていて、全ての年の夏祭りが等価に交換可能となっている。

これは訂正可能性によって過去が過去のまま現在するというのとは全く異なる話です。内実が変わってもそれはそれ、というのが訂正可能性でした。「残念賞」であったことだけに着目することで他の夏祭りの質的内容を全て捨象し、その意味において全ての年の夏祭りを等価とみなすこの考え方は、時間の距離を単に飛び越えているだけで質的変化を全く無視しています。モデル的に表現するならば、この考え方は同一平面上から抜け出せないという円環モデルの一側面を表しています。

その一方で、ラスサビ後にはこんな歌詞があります。

未来は足元に転がるよ
サイダーを飲みながら進もうか

「朝顔」歌詞より一部抜粋

「未来は足元に転がるよ」、なんて詩的な言い回しなんだと初めて聞いたときに感動しましたが、これを、ある意味では無粋なことは承知の上で、解釈してみたいのです。

この奇妙な言い回しは、夢/約束についての訂正可能性で説明できそうです。少年との約束とは過去であり「足元」にあるわけですが、その解釈を変えつつも同じものとして留めておくような「訂正」によって「未来」に繋げたのです。ここでは、「未来」と「足元」という相反する表現を同時に使っていることが重要です。この差異、交換不可能性を認めた上でそれを捨象することなく同一視するという立場は、訂正可能性によって説明されます。そしてそれを「転がる」と表現するのは、あさがおが支柱に巻き付いている様な時間モデルを思い描いていないとできないだろう、、、というのは少し踏み込みすぎでしょうか。

そしてもう一つ新たな観点を導入するならば、ここでの「未来」の方向(「支柱」の方向)は別に何だってありうるというのも極めて重要です。訂正可能性のその自由度は、未来の方向の質的多様性を生みます。新円環モデルは、その新たな軸の不定性とともに理解されなければならない。
円環モデルでは量概念による交換可能な等価性が現れていて、新円環モデルでは質的で交換不可能な多様性が強調されている。このことは本記事の結論において決定的に重要となります。

そんな多様な未来へ「サイダーを飲みながら進む」姿は、ももクロの切り拓いた道をお菓子を食べながら進むエビ中の姿に重なって見えます。

まとめ

ここまで読んでくださった皆さんは、こんなに無造作に広げた風呂敷を果たして綺麗に畳めるのか不安に感じているでしょうし、実際私も今書きながらビクビクしています。

学問的・体系的知識が風呂敷を畳むのに有用だと書評で書いてしまったのは他でもない私です。「時間論」と「数学」を駆使して、今まで触れてきた様々な話題をどうにか収束させたいと思います。

新円環モデルの射影としての反抗期・成長期・過渡期

本編に入るまでの事前準備として、エビ中の「反抗/逸脱」「成長」「中間的」というテーマについてすでに楽曲の紹介とともに分析していたのでした。飛ばした方もおられると思うので、軽くまとめておきます。

エビ中における中学生概念に着目した際、「反抗期」「成長期」「過渡期」という3つのテーマで分析することができます。その分析のまとめが以下です。


・反抗期
大人の設定する「型」的なものからの逸脱としての反抗があり、その「型」としては「物語」「目標」「規則」などが挙げられます。意図的にそれらに反抗することもあれば、物語化に失敗するという意味での非意図的かつ結果的な反抗/逸脱が見られることを指摘しました。

・成長期
物語に牽引された単線的な成長ではなく、不可避でかつ多様な成長。それが成長期に起きるリアルな身体の変化です。その多様性から、単一的な方向を思わせる「成長」よりも、「変化」と呼ぶのがふさわしいのではないかとも述べました。また、不可避性と多様性とは身体の他者性を表しているという分析も行ないました。

・過渡期
子どもと大人の狭間で、どちらとも言えない中間的な存在としての不安定さを抱えています。「自由へ道連れ」の歌詞分析を通じて、「究極的な安定=死を求めてしまうような可能性とも共存した上でなお生きる」という人生観を提示しました。


これらのテーマは互いに関連しあっているものの、統一的に語ることはしてきませんでした。当然「中学生」性の反映であるという出自の同一性はあるのですが、それ以外でということです。
今の我々には、新円環モデルという武器があります。新円環モデルでこれらのテーマを統一的に表したのが以下の図です。

新円環モデルを射影すると三つとも出てくる

各テーマについてそれぞれ補足します。

・反抗期
正確には、これと「永遠に中学生」というコンセプトが交わるとき、「梅」によって示される円環モデルが姿を現します。これは新円環モデルを平面に射影すると出てくるのでした。もっとも、新円環モデルは円環モデルから見出されたものなのでこれは話の順序が逆なのですが。

・過渡期
一次元的な両端を揺れ動き続けるこの挙動は、まさに中間的な不安定さを表しています。それと同時に、この挙動は新円環モデルの挙動のほんの一部分しか捉えられていないことをこの図は示します。我々が何かと何かの「狭間」で悩んでいると言うとき、無意識にそれら両端を結ぶ一次元的な空間を想定してしまいますが、世界にはもっと自由度があるわけで、この図はその狭間から別方向に抜け出す可能性を示唆します。抜け出すというよりは、押しつぶされて弾け飛ぶようなイメージでしょうか。前半で述べた「ポップコーントーン」でのポップのような。

・成長期
こちらも過渡期と同じく一次元的ですが、成長期については語るべきことが多くあります。
まず、「あさがお」的に言うならば、これは「支柱」の方向への成長を表しています。そして、ここで強調したいのは、支柱の方向の可能性は完全に開かれていて不定だということです。成長の方向はどの向きを向いてもおかしくないわけで、それが成長期の「多様性」を表します。「あさがお」的な支柱方向の可能性が、成長の多様性と結び付けられる。
この書き方だと、結局成長の方向性を支柱という「型」で縛り付けているように見えるかもしれません。しかし、あさがおの育ち方を具体的にイメージすれば、その分析がおかしいことはすぐわかります。支柱は絡みつくあさがおの内側にあるのであって、それは外側から形を強制するような「型」とは似て非なるものです。あくまでも放っておいたら暴発しそうな原動力(それは過渡期からくるモヤモヤかもしれません)が先にあって、それをある程度方向付けするフリとしての支柱。支柱と平行に育つことは最初から想定されていないのです。
また、支柱概念について「訂正可能性」を使って述べると、過去がその内容を変えながらも依然過去として現在してくるときの、その内容の差異の方向を表すのが支柱だと考えられます。支柱は未来の方向を示すと同時に、その方向には自分ではどうすることもできない過去(遺伝=土を含む)が大きく関わっています。これは成長、そして身体の他者性を示します。


中学生性を、「反抗/逸脱」「成長」「中間的」という三つのテーマに分解して分析し、それらを新円環モデルの観点から統一的に整理しなおしました。この議論では、成長の方向=支柱の方向の可能性が多様でありつつも、その方向は潜在的に過去=土=他者=自然と関わっていて完璧に自由な選択は不可能という二重性が重要です。言われてみればこれは我々の人生そのもので、現実における二重性/両義性をエビ中は体現しているのです。

そしてこの二重性は、ニヒリズム(人生に対する虚無的な感覚)に対抗する新たな論理を組み上げる上で、決定的に重要となります。

Q:、、、どうして急にニヒリズムの話???
A:この記事は、ニヒリズムからの解放のために書かれたから。そして、その文脈においてのみ、全ての風呂敷は畳まれ得るから。

『時間の比較社会学』における、ニヒリズムからの解放の論理

私が散々こねくり回してきた「時間モデル」の話は、もともと『時間の比較社会学』において提示されたものでした。ではそもそもなぜ、この本ではそのようなモデルが説明されなくてはならなかったのか?
それはやはり、近代におけるニヒリズムからの解放を目指していたから、です。

今から、本当に雑すぎる『時間の比較社会学』の結論部分の要約をします。自分流解釈も含むので、こればっかりは絶対原著に当たった方が良いです。念の為断言しておきますが、原著、めちゃくちゃに面白いです。私もまだ味わいきれていない。そのくらい面白いです。

では、要約です。先述した時間モデル解説と一部内容は被りますが、復習がてら読んでください。斜め読みでもよかろうと思います。


近代におけるニヒリズムの原因の主要な部分は、時間の数量性不可逆性とにある。

時間の不可逆性は、ヘブライズムにおいて見られた。それは、自然からの人間の疎外と深い関わりを持つ。日が昇って沈むように、自然は反復の象徴である。そこから人間を切り離したとき、一回性の人生を重視する感覚が芽生え、過去は繰り返すことなく帰無していく
ユダヤ民族の歴史の中でもとりわけ絶望が深かった時期には、腐り切った過去・現在から切り離した形で未来への希望を叫ばなければならなかった。その世界観においては基本的に世界のほとんどの部分=自然は悪であり、そこから切り離された希望こそが信じられた。こうした自然からの疎外の文脈において、今をそれ自体として充足的に楽しむ=コンサマトリーな態度は、ありえないものである。

時間の数量性は、ヘレニズムにおいて見られた。それは、共同体の他者からの個人の疎外と深い関わりを持つ。狭い共同体を超えて何かをなすときに、初めて時間や貨幣は抽象的な数量として必要とされる。グローバルなやり取りが進めば進むほどに共同体感覚は薄れていき、その交流の広さとは裏腹に個人は他者から孤立していく。
数量化された時間や貨幣は、時計や通貨の形で物象化される。欲望の矛先がその場その場の質的なものから物象化された数量(タイパ・コスパ)に向いた瞬間、その欲望は際限を失う。無限の欲望に飲み込まれ、一生叶うことのない夢を渇望し続ける。

これらが合体したのが近代である。すると何が起こるか。
ヘブライズムでのように、今を楽しむことが難しいと考える近代的人間を考えてみる。未来の貯金のために現在の労働資本をすり減らして完全に疲弊し切ったビジネスマンを考えれば一番わかりやすい。
ヘブライズムでは、未来への希望が叫ばれた。しかし、未来はヘブライズムにおいて数量的なものではないため、それは神への信仰で埋めることができた。共同体の神はまだ生きていたのである。
しかし、近代において、共同体の神は死んだ。共同体からも疎外された個人は、生の意味を何に求めるべきなのか。ルネサンスとプロテスタンティズムが中世的世界の解体とともに生まれたのは偶然ではない。それは、ヘブライズムの対極に位置するヘレニズムへの回帰(ルネサンス)と、個的な自我の信仰の真実性のみが重要視されるプロテスタンティズムしか、生の意味を求める対象が存在しえなかったということを示しているのだ。

近代において生の意味を求めるためのその空位は時間や貨幣によって埋めるのが手っ取り早い(プロテスタンティズム的方向だ)が、無限の量を追い求めるゲームに際限はない。無限・永遠との自らのギャップに深く深く絶望することとなる。
そして量の極限を追い求めるゲームにおいて、未来の極限は死によって急に打ち切られるという事実に当然ぶち当たる。しかし、過去がどんどん帰無していくような時間感覚のために死んだら何も残らないと感じる我々は、に関しても深く深く絶望することとなる。これが近代的ニヒリズムの起きる仕組みだ。

この構造からどのように解放されうるのか。時間の不可逆性と数量性を今更捨てて、原始人のように生きることはもはや我々には叶わない。どう頑張っても時間や貨幣の数量的な効率に限りはないし、過去はどんどん帰無していく。
ならば、最初の仮定であった「今を楽しむことが難しいと考える近代的人間」という出発点と、生の意味をそこに求めたがってしまう「プロテスタンティズム的な個的な自我」とを崩せば良い。今を楽しむとは、切り離されていた自然とのつながりを回復することであり、個的な自我は他者との触れ合いによって溶解する。つまり、時間の不可逆性と数量性はそのまま生かしつつ、我々の今を、自然と他者との触れ合いにおける質的な喜びで満たすこと。ニヒリズムからの解放はこのように示される。


硬い文章だったと思います。お疲れ様です。とにかく、時間の不可逆性とか数量性はもう受け入れるしかなくて、我々の今が自然と他者から切り離されて楽しくないことをこそ変えれば良いのだ、という論理をわかっていてくれればあとの話は理解できると思います。意外と結論は凡庸な感じですよね。

ニヒリズムからの解放としての、ももクロとエビ中

ももクロは、近代の直線的時間モデルに位置付けられていたのでした。いろいろな文脈がもちろんあるのだけど、それら全てが物語として練り上げられた太い太い直線。その断面には実がぎっしり詰まっているのだ、ということをすでに述べています。

ここで、デビューしたてのももクロに付けられたキャッチコピーを紹介します。

そんなAKB48を手本のひとつにしたのが、ももいろクローバーZだ。AKB48の「会いに行けるアイドル」というキャッチコピーに感化され、「いま、会えるアイドル」と打ち出した。ライブ冒頭「OVERTURE」があるのもAKB48の影響だという。路上ライブができなくなり、飯田橋ラムラでの定期ライブもお客が入りきらなくなって、その次に選んだ場所が秋葉原の石丸電気だった。これも秋葉原を拠点とするAKB48のファンに振り向いてもらうための思惑だった。

下記リンクの記事より一部引用(太字はHiroto)

AKB48は、ヘブライズムの線分的時間モデルに位置付けられていました。そのAKBに影響を受けたももクロ(近代、直線的)が、まさに近代の抱えるヘブライズム的性質である「今の楽しくなさ」を乗り越えるようなキャッチコピー「いま、会えるアイドル」を打ち出しているのは、単なる偶然でしょうか。
※誤解のないように付記しておくと、当然、「AKBのライブ(≒今)が楽しくなかったのだ!」とかそういうことを言いたいのではないです。あくまでも時間モデル的な分析と重ね合わせたときの奇妙な符合を観察しているのであって、それらの分析全てが現実と結びつけられるのは本意ではありません。

ももクロ的直線の断面には実がぎっしり詰まっているという表現をしましたが、直線の断面とはまさしく「いま」であって、その充実をももクロは目指すことによって、「今の楽しくなさ」を克服し、ニヒリズムからの解放を目指しているという分析が可能です。ニヒリズムという言葉が硬くてしっくりこないのであれば、ビジネス的世界観で疲れ切った社会人の生の輝きを、ライブのその一瞬一瞬の充実によって取り戻そうとしているという理解でおおむね大丈夫です。それを難しい言葉で理論武装しているだけなので。

『時間の比較社会学』において示されるようなニヒリズムからの解放の論理は、日本女性アイドル界においてはももクロが示している。それが本記事の一つの結論です。


、、、当然これで終わるわけがありません。これは私立恵比寿中学についての記事なのです。エビ中はどのようにして解放の論理を示しているのか。

ここで着目したいのは、先ほどの『時間の比較社会学』のお硬い要約の中に出てくるこの一連の文章です。

共同体からも疎外された個人は、生の意味を何に求めるべきなのか。ルネサンスとプロテスタンティズムが中世的世界の解体とともに生まれたのは偶然ではない。それは、ヘブライズムの対極に位置するヘレニズムへの回帰(ルネサンス)と、個的な自我の信仰の真実性のみが重要視されるプロテスタンティズムしか、生の意味を求める対象が存在しえなかったということを示しているのだ。

『時間の比較社会学』の結論部分では、そのプロテスタンティズム的な方向性の行き着く先にある時間や貨幣への欲望の原理的際限のなさに、ニヒリズムの原因を帰していたのでした。近代から現代にかけてまさにその方向に歴史が進んだのは間違いないため、その議論の流れは真っ当なのですが、ここで示唆されている「ヘレニズムへの回帰(ルネサンス)」については結論部分で表立って触れられていません。この方向での解放の論理は空白のまま残されている。

あえて大袈裟に言います。ここまでしてきたエビ中についての時間モデル分析は、『時間の比較社会学』におけるルネサンス方向への解放の論理を補完するものになりうるのではないか。その大まかな方針を示すことが本記事の真の目的であり結論部分となります。

最終到達点:エビ中ルネサンス 訂正可能性と三重の回帰

ルネサンスで回帰しようとしているヘレニズムでは、自然への愛は失われていませんでした。近代に比べれば、生の意味を自然へと求めることで今を充足させることができていたのです。

ただ、じゃあ自然への愛を復活させることがルネサンス的解放の論理だ!という結論には、残念ながらなりません。それでは先ほど示したメインの解放の論理と大して変わらないからです。わざわざルネサンス的な話をする必要がなくなってしまう。

以下、先に示したメインの解放の論理を単に「解放の論理」、これから示そうとするルネサンス的な解放の論理を「ルネサンス的解放の論理」と呼ぶことにします。

解放の論理では、時間モデルの変更を行なわずに解放の道筋を照らしているところが重要です。時間の不可逆性と数量性とは受け入れてそのままにしています。
ここから示すルネサンス的解放の論理では、時間の不可逆性に手を加えます。しかしそれは、ただ単に可逆な円環モデルへとある意味で退行することではなく新たなる形で過去と未来が接続された新円環モデルを提示することによって達成されます。

過去と未来を接続する新たな手法として、訂正可能性という概念を取り上げてきました。過去がその内実を変容させながらも依然として過去のまま現在するような時間モデル。円環モデルが訂正可能性を搭載し、その次元の追加可能性に開かれて生まれたのが新円環モデルです。

いずれにしても、「今が楽しくない」状態で「時間という量に生の意味を求める」と一気にニヒリズム突入です。直線にしろ(新)円環にしろ時間を量的に捉えるところでは変わらないため、その対抗策としてはやはり質的多様性に目を向けることが重要ということになります。そしてそれが結果的に今を楽しくすることにもつながる。

質的多様性に目を向けるという姿勢は一緒ですが、直線モデルと新円環モデルとでは、その質的多様性のモデル的実現の仕方が異なります。これは本記事における最重要事項の一つです。

直線モデルにおいては、質的多様性は時間感覚から解放されるような自然や他者との触れ合いによって実現されます。ここでは時間モデルと質的多様性とは両立不可能なものとして描かれています。したがって正確にはモデル的実現というよりは、モデル的実現不可能性の提示にとどまっています。最後の一手が消極的で、具体性を欠いている。解放の論理はここに改善の余地があると(本当に生意気ですが)思います。

新円環モデルにおいては、質的多様性は支柱の方向(=円環が進んでいくもう一つの軸の方向)の可能性によって示されます。ここでは時間モデルの中に質的多様性が具体的に実装されています。これは一種の積極的な質的多様性の提示であって、具体性も有しているように思います。このようにして描かれるルネサンス的解放の論理は、解放の論理の改善すべき点を乗り越えている。

しかしこちらの論理にも問題点は当然あります。

例えば、「質的」多様性と言っているのに、数量的なモデルの中に組み込んでいるのは矛盾ではないか、という問題。これについては、確かに図のような3次元空間で考えている限りはごもっともな指摘だと思います。
しかし、支柱の方向の自由さは次元にすら及んでいるということに注意すると、この多様性はとても3次元空間をどの方向から見るかという問題に収まるものではないことがわかります。ここには可算無限次元の自由度があります。
人間の認知機能が3次元空間を大きく超えないということと、通常のユークリッド距離・内積などがR^Nではうまく定義できないということなどから、このあまりにも自由で「比較困難」な方向の可能性は質的多様性と呼ぶに値するのではないか
、と考えています。

他にも問題点は数多く指摘できると思います。なんせ素人の僕が思いつきで出したアイディアですから、そんな簡単になにもかもうまくいく方が不自然です。

そんな感じで「問題点は他にもあるだろうとこっちもわかってます」と言って批判を緩和する一種の不誠実のお詫びとして、このルネサンス的解放の論理のもう一つの積極的な有用性を提示しておきます。それは、今の充足に過去が現れることを許容しているという点です。
解放の論理では、「今の充足」は文字通りの今触れ合っている他者的な充足であるわけですが、ルネサンス的解放の論理では過去を「訂正」することによって過去のままに現在させることが許されているため、過去という内的な他者の現れを、今の楽しみとして享受することが可能です。「思い出に浸る」のような素朴な喜びをもたらす行為まで排除することがないという点で、解放の論理とは一線を画しています。


AKB→ももクロの流れは、ヘブライズム→近代という時代の流れと完璧に合致していることをすでに見ました。
それに対し、ももクロ→エビ中の流れは、近代→ヘレニズムとなってしまって時代の流れと逆向きになっています。そのギャップを埋めるのがこの「ルネサンス」的な解放の論理で、近代からヘレニズム的円環にどのようにして回帰できるのかをエビ中の楽曲の分析から着想を得る形で示しました。

本記事のオリジナルな点は大きく二つ。一つは、『アイドル論の教科書』で示されたエビ中の円環モデルを、「訂正可能性」と組み合わせることで新円環モデルに拡張した点。ここに数学を積極的に用いたのもささやかなオリジナリティと言えるかもしれません。もう一つは、それが『時間の比較社会学』において触れられながらも追求されなかった「ルネサンス的解放の論理」を補完するアイディアになりうるということを強調した点。

・エビ中は、(新)円環モデルにおいてまず一重の回帰の構造を持っている。
・エビ中は、ももクロの妹分であるということから帰結する時間モデルのルネサンス性において、さらに円環→直線→新円環という二重の回帰の構造を持っている。新円環は直線の後に位置するモデルのため、円環とは別方向の、訂正可能性による直線的な成長性を宿したモデルとなっている。
・エビ中は、『時間の比較社会学』→『アイドル論の教科書』→本記事の流れで新円環モデルに辿り着いたが、それが逆に『時間の比較社会学』の補完となってしまった点で三重の回帰の構造を持っている。

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