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謝罪・自己意識・時間感覚

この記事の続きですが、この記事単体でも読めるので前記事を読まなくても大丈夫です。

前記事では、この本の核となるテーマでもある「相手意識」について語りました。その中で、「あいさつ」は「相手意識」を最低限持つための一種の技術である、ということを述べています。

そこで本記事では、本のタイトルにもある「ごめんなさい」、つまり「謝罪」についての自分なりの考えを記そうと思います。謝罪という営みも相手意識の延長に位置していますが、改めて謝罪について語るとなるとなかなか骨が折れます。本記事を読んだ皆さんが少しでも一緒に骨を折っていただけることを祈って、早速本題に入ります。


謝罪と自己

いきなりですが、皆さんは昨日の自分と今日の自分は同一人物だと感じますか?それとも別人だと感じますか?
当然ですが、この問いへの回答は文脈によりますし、昨日ではなく一年前に変更したらまた回答も変わるかもしれません。そういった意味では「悪問」なので、ここでまともに取り組むつもりはありません。それではなぜわざわざ取り上げたのかというと、皆さんに「自己同一性」という概念について意識してほしかったためです。

過去の自分を「自分」だと言えるのはどうしてなのでしょうか。
身体が同一だから? 巨視的にはそうですが、微視的には細胞は入れ替わり続けています。全く同一ではありません。
記憶を所有しているから? それでは、記憶にない自分の行為というのはあり得ないのでしょうか。それも直感に反します。他人から指摘されて、覚えてはいないけれどもそれが自分の行為だと認めることは往々にしてあります。

こんなふうにまともに考え出すとキリがないのですが、とりあえず言えることは、人間社会は自己同一性を前提にして回っているということです。これは当たり前すぎる常識であって、直感にも反していません。

個人的な考えとしては、人間にはまず生物的・身体的レベルで、ある程度の自己同一性が前提されていると考えています。というか、振る舞いを観察したときに後から「自己同一性を認識している」と表現されるような振る舞いを行うようになっているというのが正確でしょうか。人間以外でも、自分の足跡を永遠に辿り続けるようなことはしない賢い生物はたくさんいるでしょう。それはその生物が自己同一性を認識しているというよりは、そう表現されるような振る舞いが進化過程で自然選択されたという言い方が正確なように思います。

しかし、人間における自己同一性はそのようなレベルに収まっていません。社会・言語において、上で示した生物学的自己同一性は拡張され、より強固になります。「自分」という主体を前提とした言語使用が行われることで、私たちは「自分」という主体を前提とした世界像を形成し、その世界像とともに世界を理解しています。この運動を通して、過去や未来とも接続した「自分」概念を所有できるのです。
とはいえ、普段からそんなまどろっこしいことを考えて生きているわけでは当然なく、通常の言語使用では、「自分」「I」という語は状況の区別程度の役割しか果たしていないように思います。自己同一性とかをいちいち考えて言語を用いているわけではありません。

それでは、こういった自己同一性が問題になるケースとはどのような状況なのでしょうか。これも色々あるとは思うのですが、「謝罪」する場面というのは、自己同一性が際立って問題となる状況の典型例ではないでしょうか。

謝る。それは、過去の自分の行為に関連して現在の自分が行う行為です。過去の自分が犯した罪をなぜ現在の自分が引き受けなければならないのかといえば、そこに自己同一性があるからです。ここでの自己同一性は明らかに生物的な反応としての自己同一性を超えていて、社会から要請された自己同一性と呼ばれるべきものでしょう。ここには、「あなたがやったんでしょ」という形で、他者から、社会から、自己同一性が押し付けられるという構造があります。

社会から要請された自己。これは、他者から見た他者としての自己です。自己概念のために、他者を経由しています。謝罪という営みにおいては、他者から見た他者としての自己が問題となるのです。その意味で、前回の記事で取り上げた「相手意識=他者意識」より一歩先に進んだ議論を今回の記事ではしようとしています。他者意識を前提として、さらに、その他者から見た他者としての「自己意識」がここでは問題となっているのです。

謝罪の必要条件

少し前に、『謝罪論』という本を読みました。

この本の中では、謝罪をその性質によってピッタリと特徴づける(必要十分条件を述べる)ことの不可能性が論じられています。謝罪について語る際には、

  • 「こういった行為は謝罪である」と内側から(十分条件から)攻める

  • 「謝罪はこういった行為である」と外側から(必要条件から)攻める

の二通りしかできないということです。

『謝罪論』では謝罪の必要条件として、「当事者性」と「コミュニケーションの起点」という二つの条件を挙げています。これは、先ほどまでで見た謝罪像とどのように接続できるでしょうか。

まず、「コミュニケーションの起点」について。謝罪は、それによって赦しを得られるかはわかりませんが、少なくとも何かしらのコミュニケーションを生み出します。コミュニケーションなき謝罪は考えられません。
コミュニケーションは、前記事からのテーマであった「他者意識=相手意識」と強く結びついています。ただの風景としてではなく、相手を一人の複雑な人間として捉えること。コミュニケーションを通じて他者意識をより強くもつことが可能になりますし、他者意識があるからこそコミュニケーションがより豊かになります

そして、「当事者性」について。謝罪に関わる過去の事象について、それに他でもない自分自身が関与しているのだと認めること。こちらは、先ほど導入した「自己同一性/自己意識」と強く結びついています。説明を繰り返す必要はないでしょう。

そういうわけで、『謝罪論』において述べられている謝罪の必要条件は、「他者意識と、それを踏まえた自己意識」という概念で捉え直すことができるのです。

謝罪と教育

前の記事では、あいさつについて「他者意識=相手意識を自然にもつことができるように社会(教育)の中に埋め込まれたシステム」という見方を導入しました。ここまでの流れを汲むならば、謝罪については次のように言えるでしょう。

謝罪とは、過去・現在・未来の全てを貫くような自己意識を自然にもつことができるように社会(教育)の中に埋め込まれたシステムである。

この自己意識は謝罪をする場面に限らず、(現代)社会で生きていく上で重要なものです。しかし、その自己意識を状況と切り離して単独で教え込むことはできません。そこで、自己意識が問題となる典型的な状況として、修復可能な加害とそれに伴う謝罪という行為が重要なのです。親や教師が謝罪という行為をどのように子どもに教えるのか。それが子どもの自己意識に多大なる影響を及ぼします。

本のタイトルについて改めて考えてみましょう。学力が謝罪とどう結びつくのか。著者は本全体を通じて、謝罪に限らず言葉を丁寧に使うことが学力に直結するのだという主張をしているように思います。これはあまりにも正しい主張です。しかし、もっと狭い意味でも謝罪は学力と結びつくのではないでしょうか。謝罪によって強固になる自己意識。その自己意識のもとで、未来の自分のキャリアと現在の自分の行為が強固に結びつきます。未来の自分のために、今勉強をする。そういった動機が自然と生まれることによって、学力が向上する。こういった流れも見出せるように思います。謝罪という行為は、言語活動一般に還元されない特有の力で、本書での扱いよりも直接的に学力に影響を及ぼしているのではないでしょうか。

謝罪と時間

先ほど、謝罪は「(現代)社会を生きていく上で重要」だと書きました。なぜ(現代)なんて注意書きが必要だったのか。それは、過去方向と未来方向に無限に伸びた時間意識というのがそもそも近現代に特有のもので、それに伴った自己意識というのもまた近現代に特有のものだからです。

このあたりの話は、『時間の比較社会学』という本に詳しく書かれています。

社会が異なれば、自己(が埋め込まれている時間への)意識も異なります。上で述べたような謝罪とは、過去と未来の自分が現在の自分に強く結びついた、非常に現代的な謝罪です。だから、現代社会において重要だ、とわざわざ書いたのです。裏を返せば、社会が異なり、時間意識も異なれば、謝罪の様式も異なるのではないでしょうか。

こんなふうに風呂敷を広げておいて申し訳ないのですが、特段ここから多様な謝罪様式の詳細に踏み込むわけではありません(というか知識不足でできません)。ただ、千葉雅也の『現代思想入門』にはこの議論のヒントになりそうな記述があります。

第三章で説明したように、『性の歴史Ⅳ』によれば、アウグスティヌスが人間の心に解消しきれない罪責感をインストールすることで無限に反省を強いられる主体を定立したのでした。この罪責感、つまり原罪とは、まさしく否定神学的Xです。キリスト教の主体化は、まさしく否定神学的主体化です。そこでフーコーは、それ以前の、言ってみれば無限には反省しなかった時代の人たちに一種の可能性を見ることになる。

千葉雅也『現代思想入門』第七章より引用

法的なものではなく、行政的であり監査的であるとされる反省の形態は、無限に深まって泥沼になることがない。そのような意味での無限批判がここにはある。すなわち、謎のXを突き詰めず、生活の中でタスクがひとつひとつ完了していくというそんなイメージの、淡々とした有限性です。主体とはまず行動の主体なのであって、アイデンティティに悩む者ではないのです。

千葉雅也『現代思想入門』第七章より引用

罪の捉え方と、無限に対する感覚と、アイデンティティとが互いに連関している様子が分かると思います。言い換えれば、謝罪と時間意識と自己意識との連関と言ってもよく、これはまさしくここまでで私が述べてきたことでした。自己意識が無限に延長された時間軸の上で捉えられることは、決して自明な前提でないことが分かります。

ちょっと謝罪の話から脱線します。時間と自己意識の話を少しだけ。

近現代の無限直線的時間感覚は、未来志向の極限であり、現在性が蔑ろにされてしまう。それが近代的なニヒリズムだと『時間の比較社会学』では述べられます。このニヒリズムから脱するにはどうすれば良いのか。『時間の比較社会学』では、その希望を「他者と自然」に見ています。また、真正面からその問いに答えているわけではありませんが、『現代思想入門』ではその希望を「古代の有限性」に見ているように思います。

私も私なりに小市民ながらもニヒリズムからの脱出の希望を見出していて、その詳細は以下の記事に記してあります。

読んだ人向けに言うならば、「新円環モデルによって示されるルネサンス的解放の論理」こそが、私なりの希望です。今読み返すと、上で示した二通りの希望である「他者と自然」「古代の有限性」のエッセンスをどちらも含んでいるように思います。

ともかく、時間をどのように捉えているのかというのは、皆さんが思っているよりも強く自己意識に関わっていて、それなりに真剣に考えるに値するテーマだということです。そして、現代的な自己意識はうっかりすると深い絶望(ニヒリズム)へと誘うものだということも重要です。

謝罪の話に戻ると、ここまでの議論では、謝罪が過去と未来と現在を貫く自己像を形成するのに重要な行為で、それによって社会的に生きることができるのだ!というように、割とポジティブな語り口で謝罪と自己意識について語ってきました。しかし、その自己意識の極限にニヒリズムがあって、それはそれで対処すべき重要なテーマなわけです。ここには、謝罪を重く丁寧に捉えすぎることのネガティブな面が垣間見えます。『謝罪論』では謝罪を「重い謝罪」と「軽い謝罪」に分けているのですが、これをニヒリズムへの対処という観点から見ると、「軽い謝罪」の新たな重要性が浮かび上がってくるような気がするのです。

謝罪と解放の論理

ここからは今後の展望という感じです。謝罪を自己意識と時間感覚に結びつけて考えたことにより、重い謝罪のみを考えてしまうとそれはニヒリズム的な極限に行き着いてしまうため、実は軽い謝罪こそが重要なのではないか?という地点まで辿り着くことができました。

私がニヒリズム(とそこからの解放の論理)について考える際には、私立恵比寿中学(エビ中/えびちゅう)というアイドルグループがぶっとい補助線として機能しています。先ほどの記事でも誇張ではなく本質的に、私立恵比寿中学についての分析が理論の骨子を支えています。

謝罪と解放の論理が結びつきそうで、解放の論理とエビ中はすでに結びついている。ならば、エビ中と謝罪はどう結びつくのか?それを考えることで、エビ中を介して謝罪と解放の論理を結びつけることができるのではないか?そんなことをぼんやり考えています。

「いや自分の好きなアイドルグループの話をしたいからって、さすがにそれは無理やりな展開すぎるだろw」と皆さん思われたと思います。半分はおっしゃる通りなのですが、半分は案外そうでもないというか、エビ中を論じる上で謝罪というテーマはかなり本質的だと思われるのです。

例えば。エビ中初めてのオリジナル楽曲「えびぞりダイアモンド!!」において、ラスサビ前にこんなパートがあります。

悪いことしたときはね
ゴメンっって謝ろ?

そうすれば ケンカも
争いも 戦争だって
なくなると思うんだぁ

ずっと ずっと 笑っていたいから

ゴメンと謝れるその勇気は
ダイアモンド!!

「えびぞりダイアモンド!!」歌詞より一部抜粋

記念すべき一曲目の大事な部分が、丸々「謝罪」について割かれている。このことはエビ中のテーマ性に深く関わる部分だと思うわけです。そして、ここでの「ゴメン」は、まさに軽い謝罪でしょう。私が今論じたい方向はこの方向にあると思えてならないのです。

そんなわけで、エビ中を謝罪という観点から論じることができれば良いなと思っているところです。それが、解放の論理を別の角度から補強することになるのではとぼんやり期待しています。皆さんも、続編記事にぼんやりご期待ください。

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