受験と数学に埋もれた東大生の末路。

本記事はこの二つの記事の続きです。とはいえ、上の二つの記事自体は独立しており、この記事は上の二つを自らの人生経験から綜合しようと試みるものです。上の二つの記事はこの記事の「フリ」であり、別に読まなくても大丈夫です。読んでくれたら嬉しいけど、くらいのやつです。

高校までの私と、受験

私は、高校受験と大学受験にかなり身を捧げた人間であろうと思います。初めから東京大学を目指していたわけではありませんが、手が届きそうだと分かってからはそれはもう受かるために必死でしたし、もはやその必死であることが当然すぎてその当時は必死という感覚すらありませんでした。

なんでそんなに頑張るの?と聞かれたら、その当時の私はどう答えるのでしょうか。カッコつけて「いや、まあなんか適当に勉強してたら一番有名な大学に入れそうなとこまで来てたから、ここまできたらやったるか的な?」みたいに答えていた時期もありますが、さすがに噓すぎます。感じ悪いだけだし。

本音としては、やはり「将来の選択肢が増えるから」でしょうか。実際のところ、明確にそれを目指して勉強していたわけでもないですが、私が勉強に邁進しているのを家族が応援してくれていた理由はやはりそこにあるはずで、間接的に私が受験を頑張れていたのはこのような社会通念によるものである、といえそうです。

ここで問題なのですが、果たして、本当に「将来の選択肢は増える」のでしょうか。まあ、これは実際増えるのかもしれません。しかしそうだとして、「選択肢が増えることは無条件に是とされるべき」なのでしょうか。ここは今となってはかなり疑問です。
一緒に読書会をしているチームの方が、安冨歩の『生きるための経済学』という本を読み、このあたりについて詳しく記事を書いてくれています。参考までに貼っておきます。

「選択肢が増える」「年収が上がる」「20代のうちに稼ぎきる」。なんの疑いようもなく肯定してしまいそうになります。しかし、それはなんのためなのでしょうか。これらはすべて、一次元的な量の増大としてまとめられます。コスパ、タイパ、など。この軸に沿っている限り、最終的な目的は無限の彼方に吹っ飛んでしまい、その先に待ち受けているのは虚無のみです。実数直線とはなんとも便利な概念ですが、その先が無限に続いてしまうことが近代以降に生きる我々にとって根源的な不安の原因です。我々は、量的無限によって前へ前へと走らされ続けていますが、ゴールテープを切ることは決してありません。

近代以降の世界が、量的無限の彼方(虚無)へ皆を一様に走らせ続けるような動的構造を持っていることは、ここでは前提とさせてください。あなた自身がどうとかの話ではなく、社会の構造がそうなっている、という話です。レヴィ=ストロース的に言えば「熱い社会」。ジャック・ラカン的に言えば「去勢」。柄谷行人的に言えば「交換様式C」。浅田彰的に言えば「クラインの壺」。真木悠介(見田宗介)的に言えば「直線的な時間」。令和の日本においても、この構造の大枠は変わっていません。

このような構造下で、漠然と目的を先送りし、なんとなく周りが褒めてくれるから東京大学までたどり着いた。それが大学入学までの私です。

大学での私と数学

上のような虚無に向かって走り続けてきた私は、大学入学後、当然その虚無性に薄々気づき始め、進学振り分けや大学院入試を目標とすることでなんとなく誤魔化してはいるものの、もう今までのような「選択肢を増やす」ことのみに縋っている状態ではいられなくなりました。増やした選択肢を選び取って収束させなければならない。そこから目を背けるため、私は数学に身を委ねることになります。

「知のための知」「学問のための学問」。なんともカッコ良い響きです。元々数学は受験のときから大得意で大好きだったので、「大学では目的とか関係なく自由に数学をしよう。数学のために数学をしよう!」といった感じでズブズブと数学にのめり込んでいきました。コロナ禍で引きこもりが社会から奨励されたのも相まって、私の数学への引きこもりは加速しました。大学1,2年は大体ずっとこんな感じだったと思います。

大学で勉強に勤しんでいれば、怒られることはまあありません。アルバイトも家庭教師で数学を教えていたので、本当に数学さえやっていれば良いという毎日。世間からはどんどん乖離していきます。そして、乖離していけばいくほど、さらに数学にのめり込んでいくのです。

これは、先ほどのような「虚無への競争」よりも酷い有様です。目も当てられません。目的なく数学を勉強していたはずなのに、いつの間にか世間と乖離した自分が生きていくためにすがる究極的手段となってしまった数学。この転倒は当然です。社会構造の方は先に示したようにずっと動き続けているので、うずくまって引きこもっている私なんかを置いてどんどん先に行ってしまいます。それでもなお引き篭もろうとすれば、その現実との摩擦を無視するほどの没入をしなければならないのであり、数学にしがみつくことがいつの間にか生きていくための条件となってしまうのです。そのまましがみつき続け、いつか社会構造の方を自分の数学に引き寄せてしまうほどの成果を上げればそれはそれで良いのかもしれませんが、私にはそれを貫き通すだけの度胸もありませんでした。それは、引きこもりながらも少し外を窓から覗くような精神が消えてはいなかったということでもあり、これは今なら肯定的に受け止めることができます。

じゃあどうすればいいんだ!

結局は全部手段だよ、とシラケてみても、その行き着く先は虚無。じゃあなんでも良いから何かを自己目的的に愛でよう!と引きこもり的にノってみても、社会との摩擦により宗教と化す。

近代以降において、逆張りとして思想的に引きこもり続けるのは明らかに不健全です。ノリだけではダメ。それよりかは、全部を相対的に見て俯瞰でイキってる方がまだマシ。しかし、それも大抵「結局は金だよw」になってしまい、量的無限に向かう運動に容易に巻き込まれてしまいます。シラケてもダメ。相対的にものを見るという外へ出ようとする運動さえ、社会構造の中にすでに織り込み済みであり、無敵か?逃れられないのか?という感じです。

俯瞰の視点だけでは意図せず虚無へ巻き込まれてしまう以上、各場面ではある程度引きこもることが必須です。しかし、それは今までのような、その内部を全体だと思いこむような盲目な引きこもりではなく、外部があることをわかった上で、あくまでもフリとして引きこもるという姿勢でなければなりません。それについて触れたのが最初に挙げた記事の二つ目(『経済学の思考軸』についての記事)です。この記事では少し踏み込んだ主張をしていて、外部があることをわかった上で学問や本に引きこもろうとする人にとっては、学問や本はむしろ外部について中途半端に触れないでくれた方がありがたいのだ、と主張しています。

ともかく、引きこもるは引きこもるんだけれど、その引きこもり先を転々とすること。この質的多様性が、量的無限に対するものとして立ち現れます。しかし、「選択の自由」は先にも述べたようにまた虚無へと誘うのではなかったか?その部分に対して一種の回答を与えているのが、最初に挙げた記事の一つ目(私立恵比寿中学(エビ中)と時間モデルについての記事)です。後半の方で与えられる「新円環モデル」というのが、選択の自由に溺れないための一つのモデルを提示しています。

引きこもり先の可能性は、論理的にはあまりにも多様ですが、実際に選び取るものには過去が過去のまま現在するような自らの身体性が影響します。それを安冨歩(そして、マイケル・ポランニー)は「創発・暗黙知」と表し、千葉雅也は「非意味的形態」と表します。上のエビ中についての記事では、東浩紀の「訂正可能性」を時間モデルに組み込むことで、質的多様性と身体性との両立を実現しています。


最初に挙げた二つの記事(そしてこの記事を合わせたら三記事)を書きながら、今まで述べてきた「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」方法論について理論的に納得するとともに、まさにこの執筆活動そのものがその方法の実践にもなっていることに気づかされます。そして、これらの記事を書くきっかけとなった読書会(とその母体となるコミュニティ)の存在が自らを外へと開いてくれたのは間違いありません。

数学だけをやっていたら、食わず嫌いしてアイドルを敬遠していたら、絶対に出会わなかったであろうものたちがあって、それらのおかげでこれらの記事が書けています。そして、文章を書くにはある程度それらにも真剣に向き合う必要があって、ただ俯瞰しているだけでは絶対に書けませんでした。表現すること、表現し続けることは、俯瞰しているだけの生き方を許さない。「シラケつつノル」には、自らが誠実な表現者たろうとすることは不可欠です。

この「シラケつつノル」みたいなのは浅田彰の『構造と力』から引っ張ってきています。少し古いのは否めませんし、正直今の若い世代は言われずとも、宗教的引きこもりもバリバリ金儲けも拒むような精神性を備えていると思います。そんな若者たちが目指す先は「精神的幸福感」とか「今の充実」とかになることが多いのですが、その達成のためにタイパとかコスパとか言い出した瞬間に、近代的虚無の餌食になって終わりです。この悪魔的なブラックホールは、油断しているとすぐに我々を飲み込んでしまうのであり、この恐ろしさを強調することは現在においても有効であろうと感じます。マインドフルネスがビジネス的に流行っているのが恐ろしさのいい例でしょうか。

さて、ここまででわかるように日本のニューアカ(以降)の思想に絶賛引きこもっている私の、次の思想的引きこもり先はどこなのでしょうか。私立恵比寿中学から抜け出せない私の、次の音楽的ハマり先はどこなのでしょうか。上のような理論を述べたところで、何かに一旦ハマると抜け出しにくいというのが人間でもあります。外が見えなくなってしまう。この外へ向かう運動を考える際のキーワードとして、個人的には「依存」「慣れ」「飽き」といった概念を挙げておきたいと思います。とくに「飽き」についてはちょっと真剣に考えようと思っているところです。「飽きっぽい」ことはよく注意されるが、「飽きない」ことも同様にまずいのではないか?「飽き」こそが人をある枠組みから脱出させる鍵なのではないか?

ひとまず、飽きるまで考えてみようと思います。

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