技術としてのあいさつ論【学力は「ごめんなさい」にあらわれる】
所属している読書会にてこちらの本を読みました。読書会チームメンバーが書いた書評はこちら。
本書では、「相手意識」という言葉がたびたび登場します。ほぼ全ての話題についてこの概念が引っ付いているため、これは本書を読む上でのキーコンセプトであると言って良いでしょう。この記事ではこの意識について少し考えを膨らませてみたいと思います。
「相手意識」とは何か。それは、そこにいる相手を、統合された一つの存在として意識することです。また、個別の現象をその「相手」と紐づけて認識しようとする志向性のことも指します。本でこのように定義されているわけではありませんが、そう私は解釈しています。
前者の「そこにいる相手を、統合された一つの存在として意識する」について。これは、そこにいる相手を背景にしてしまわないということです。本書の中で「あいさつ」は相手意識の表れだとされますが、それはこの点に関わってきます。あいさつは言語メッセージとしてはほぼ皆無に等しいですが、「あなたを風景の中の背景としてではなく、一つの存在として認識して承認しています」というメタメッセージを示しています。
あいさつは「される側(されない側)がどのような気持ちになるのか」という観点から論じられることが多いですが、私個人としては、あいさつは、それを行う主体の側が周囲の人を背景化しないための一つの技術として捉えられるのではないかと思っています。周囲の人を、ちゃんと「人」として捉えられるように、教育の中に組み込まれているシステム。それがあいさつだと思うのです。この技術としての意味であいさつができない人に向かって、「あいさつされないと人は悲しいよ!」と説いたところで、残念ながら伝わりません。なぜなら、そのあいさつをしなければいけない局面において、その相手を「人」として意識できていないのですから。風景になってしまっている。そういう人に対しては、感情に訴えかけるのではなく、あいさつに失敗したその瞬間に「教育」して、技術として習得させなければならないのです。
こんな書き振りをしていると偉そうだと思われそうなので断っておきますが、これは半分以上自戒を込めて書いています。私は、おそらくあいさつが苦手なタイプの若者としてカテゴライズされるのでしょう。だからこそ、こうしてわざわざ理屈をこねてあいさつについて語ってきているのです。初めからできる人は、理屈なんてこねる必要がないのですから。
話を戻します。次に、後者の「個別の現象をその「相手」と紐づけて認識しようとする」について。むしろこちらが「相手意識」の肝となる部分です。これを実行するためにはまず「相手」を認識する必要があり、そのために前者(のためのあいさつなど)が必要だったわけです。
この態度は、相手が言ったことややったことを、それ単体としてではなく、その一人の人間の行為として、大きな文脈で意識的に捉える態度です。
そう言うと、「大事なのは誰が言ったかではなく、何を言ったかだ」と言われるかもしれません。まあ確かに、一理あります。そのように発話と発話者を意識的に切り分けるべきシチュエーションは数多く存在します。しかし、「真に発言の内容のみで物事を判断していて、誰が言ったかなどの先入観は排除している」という状態は、実は非常に危険です。より正確に言えば、そんな状態はありえないので、そんな状態であると自分の認識について素朴に信じ込んでいるという状態こそが危険なのです。
まず大前提の話ですが、人は、発話や行為を、文脈(物語)の中でしか捉えることができません。意識的であれ、無意識的であれ、これは必然的にそうなのです。人の認知とはそういうものであって、ここをどうにかしようとするのは不可能というものです。というわけで、まずはその不可能性を無視しないところから出発する必要があります。
それにもかかわらず、「真に発言の内容のみで物事を判断していて、誰が言ったかなどの先入観は排除している」などとのたまってしまうとどうなってしまうのか。そんな状況下では、その人が無意識下で受け入れている狭く小さい文脈でしか物事を捉えることができず、逆説的にどんどん自己中心的で凝り固まった人間になってしまいます。一見フラットに物事を見ているようで、その実は自己中心的な狭い文脈の上でしか物事を見られていないのです。
このように視野狭窄になってしまうと何が危険なのか。単純に、外界に対する予測の精度が著しく低下します。脳の主な機能は現象の予測なのですから、これは人間にとってかなり根源的な問題であることは納得していただけると思います。文脈の中で理解するとは、過去から未来に繋がった物語の中で現在を捉えるということです。過去から帰納的に未来を予測し、決めつける。それが先入観というものであり、偏見というものです。文脈=物語=予測モデル=先入観=偏見。
視野狭窄状態は、他者の行為や言動に自分をそのままそっくり投影してしまうことにつながります。しかし、他者は自分とは違う行動原理に基づいて行動しているため、それでは予測の精度は低いに決まっています。「何の文脈とも切り離す」とは、「手持ちの既存の文脈を(無意識的に)そのまま押し付ける」ことなのです。人間という複雑なオブジェクトの挙動を予測する際には、手持ちの文脈は「自分自身」しかありませんから、自分と他者のその根本的な差によって、予測はことごとく外れてしまうのです。
ではどうすれば良いのか。無意識では自分の手持ちの文脈を押し付けてしまうのなら、意識のもとに引っ張り出してくれば良いのです。相手の挙動を、意識的に相手の文脈のもとで捉え直してみる。相手という観念を一つの統一的なものとして思考に含めることで、その相手に関わる過去の事象や周辺の情報が、意味のある入力として捉えられることになります。究極的には自分の予測モデルを使うことになるのですが、その入力が相手に依存したものになることで、必然的に現実との差は縮まります。結果として、予測の精度は、上がる。無意識だと、予測のために足りない入力を自らの手持ちの文脈から引っ張ってきてしまうので、現実からズレる。要するに、予測のために意味のある入力を増やすためには、意識的に視野を広げる必要があって、そのために「相手」という名札を通じて現象を捉えることが有効だということです。
また、無意識で処理をしてしまうと、しばしば相手の都合の良い(悪い)部分のみを予測の入力にしてしまいがちです。意識して視野を広げることで、安易には一言で片付けられない人間の複雑さが入力の多様性に反映されます。そうなると、複雑すぎて意識下(言語上)では容易に結果は予測できないかもしれませんが、安心してください、そこからは無意識が何とかしてくれるでしょう。むしろ、言葉の範疇で人を語り尽くせる(と信じている)のなら、それはそれで相手の人間性を軽んじています。そうやって単純化された像を相手に押し付けて固定化することで生じるのが「ハラスメント」です。無意識はしばしば都合の悪い部分を無視して単純化してしまうのが厄介なのですが、そこを意識でカバーして、入力さえ十分に与えてやれば、あとはそれに見合った予測モデルを組み立ててくれるはずです。ここには神頼みみたいな側面があります。最後の最後まで、自分の脳みそはブラックボックスですから。繰り返しますが、視野狭窄を避けるために言語(意識)の力を用いて入力の増加をブーストし、その上で言語偏重によるハラスメントに陥らぬように究極的な最後の処理は非言語(無意識)の力に任せるといった、二段構えの構造をここでは提示しています。
ここまで私が繰り広げてきた議論も、これはこれで、「自分の予測の精度を上げるために他者概念を用いている」というのが自分本位に映るかもしれませんが、それが結果として相手を慮るということにつながっています。相手を「人」として認知し、その予測可能性が高まる。それはつまり小学生にも伝わるように言うならば「思いやり」です。ダラダラ書いてきましたけど、要は思いやりを持ちましょうや、ということです。そして、しつこいようですが、その起点となる技術としてのあいさつなのです。
そろそろ文章を〆ようと思いますが、一つだけ。この記事を書いているのが他でもない「私」であるということをもう一度、強く、意識してください。私は、自己防衛のために、他者の文脈に入り込みすぎないように生きてきた人間です。そんな自分への戒めとしてこの記事は書かれている。そういった「文脈」があるのです。当然、先ほども述べましたが、特定の文脈からパーツを切り離す技術というのはまた別の観点から見て重要です。この記事は、偏りを持って生きる私が、その偏りへの反作用として書いたもので、そのままあなたに適用できるわけがありません。適切な「文脈」のもとで、適切に「入力」していただけると、幸いです。無視だけは、しないでくれると助かります。
最後にちゃんとあいさつを。読んでいただきありがとうございました。
そして、あいさつは、されたら返しましょう。「スキ」ボタンはすぐそこに。