土曜の朝、須賀敦子全集第三巻を読み終える
早朝、まだ陽が登らない時刻、冬の蘇州の小さなホテルの一角にあるコインランドリーの並ぶ部屋──乾燥を待つ間、僕は須賀敦子全集第三巻を読み終えた。
他の宿泊者がやって来て、お互い寝ぼけ眼で軽く会釈した。霧が窓を薄い水のベールのように覆っている。ガラスに映る僕と見知らぬ人。窓の中の僕らは水滴で表情も視線も曖昧だ。
向こう側の僕らは冬の運河の旅仲間のように思えた。
外を眺め、眼を閉じると、ドラムの回る音だけが響く。
冬の運河沿いの木々が僅かに見える。
僕はどうしてだか白い薔薇の花びらの何かが運河に紛れ込んでいるような、そんな気がしてならなかった。
情熱的に旅をし、冬にはアメリカの片田舎の小さな白い家に閉じこもるユルスナール。
イタリアをちょこまかと歩く須賀敦子と旅するユルスナール。
日本で書き物をしたり教鞭を取ったりする須賀敦子と白い家のユルスナール。
彼女たちが重なってすれ違い、離れていく。
いく筋もの水の流れが本流に合わさっていくひとつの遠い昔から流れる広い川のようなものに須賀敦子の薔薇の花びらのようなさまざまなエッセンスが紛れこんでいる。
薔薇は咲き誇ると優雅だが、冬の寒さが必要だ。
孤独な寒さの中で薔薇は眠る。
寒肥からじっくり肥料を吸収し、薔薇の木立はじっと春を恋焦がれながら休眠する。
旅もそうだろう。旅支度をあくせくとするよりじっくりと支度して旅に出る、あるいは、思い切って寒い雪の中、芽吹く準備をし始めた小さな緑のように旅に出る、あるいは人生における次と次とのはっきりとはしない区切りの合間に、準備として旅をする。
花の蕾が膨らんだり咲いたりする時の花びらの声を想像する。
水面に散った花びらの揺れる声、腐り始める寸前の痛々しいほど官能的な姿。
秋が過ぎて冬が来て、また春を待つことができなくとも、恋焦がれていたときの匂いを水と霧に漂わせながら揺られて流れて跡形もなく消えてゆく。
水に映る僕と誰か。コインランドリーの窓ガラスの中の僕と誰か。
乾燥が終わった合図の音で僕は目を開けた。
見知らぬ旅人の洗濯はまだ終わっていないらしい。僕らはまた軽く会釈して、別れた。
霧のベールは陽の光が既に綺麗さっぱり洗ってしまったようだ。
土曜の朝。