どうしてバタイユ読むと元気になるのか、
ずっと青空が気にかかってしょうがなかったのか
理由がやっとわかった気がした。
「魔法使いの弟子」というバタイユの論文を読んで、訳者の解説を読んだ。
バタイユにとっての実存とは、「今、ここで生きている」という人間の生の現実、あるがままの人間の生の在り方を指し、「人間の運命」と密接に関わっている事態のことである。実存を損なう近代生活は「人間の運命」に背を向けている。
というのが本論文のテーマである。
そして、総合性とはキリスト教徒ならば、分かりやすいものかもしれない。(バタイユは元々はカトリック信者であったが棄教した)
僕はキリスト教徒であり、カトリック信者であるため、フランシスコ会聖書研究所の聖書 新約から引用する。
バタイユはその論文を劇的な恋愛をしていた最中に書き上げ、4ヶ月後に恋人ロールを結核で失ったことを知った。
訳者のあとがきの最後には、できる限り多くの人々にバタイユの思いを伝えたいと思い解説を書いた、とある。
訳者がいかにバタイユを愛しているかよく伝わる解説だった。
ロールとの事が気になって、ある論文を何気なく読み始めた。
「バタイユの欠落とロール」
阿部静子
2005年 慶應義塾大学学術情報リポジトリ
ロールとの経緯を僅かに知った。
青空が書き上げられたのは第二次世界大戦直前の1934年であり、この時期にロールと結ばれたということでもある。
青空のダーティは、ロールだ。
草稿の「空の青み」は1936年にかなり内容の異なるものが雑誌掲載されている。
そしてこの草稿は、「内的体験」に「空の青み」として、「第三部 刑苦の前歴」に収められている。
その後、序章のみを「ダーティ」として1945年に刊行し、現行の青空が刊行されたのは戦後、1957年だ。
心の整理がなんとかついたかのような刊行の仕方にも見えた。
俺はそんなバタイユの背景を知ることなく、黒のイロニーを知ろうとしたし、支離滅裂と内的体験に対してのサルトルに同調した。
そんな単純なことなんかじゃないんだ。
何かを書くとき、必死に死にかけながら書く。
ちゃんと読まないとだめだ。
ひとりの作家の作品を数冊で判断して、感想書くなんて非情かもしれない。
そんなことはしちゃいけない。
俺はなんてことをしたんだろう、と思い、
内的体験の空の青みを読み返し、そのあとで今朝、魔法使いの弟子を読み返し終わったら、何となく泣けてきた。
失望から脱却しきれなかったとしてもその後内的体験を書き上げられたバタイユは凄まじい精神の持ち主かも知れない。
愛する存在がいて、生きてこそなのだと思わされる。
過去は動機付けや原動力ではあっても伏線回収のための時間ではない。過去を掘り起こしたところで、永遠に変わらぬマロニエの木だ。