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インド夜想曲──旅する読書
タブッキの本は日本の気候より、乾いた暑い国で読みたい。
時々、何もかも放り出して、遠い国へ旅したくなる。
「インドで失踪する人はたくさんいます。インドはそのためにあるような国です」
──『インド夜想曲』 アントニオ・タブッキ
何度目かの再々読。
───
勝手な僕の思い込みだけれど、タブッキ、ペソアをこよなく愛するひとは知的でエレガントで美しいひとだ。
あるエレガントなエッセイを書く方がいる。
僕はその方を勝手に美化させていたりもするけれど、今いちばん砂浜で偶然会ってみたい方だったりもする。
きっと僕なんかは見向きもされず、声もかけれない。
年齢も性別も超越して、とびきり仕草の美しい人だ。僕の勝手な妄想の中で。僕はその方と海岸から引き上げてその方とBillsで朝食をとり、夢のことを聞く。不滅でアニエスが生まれたときみたいに。
───
ほほえむと、悲しそうにみえる主人公の想い出の中の友人、シャヴィエル。
インドで失踪したシャヴィエルを探して僕はボンベイ(ムンバイ)からマドラス、ゴアと彷徨う。
失踪したのが彼なのか、主人公なのか、読んでいる僕なのか。
曖昧なタブッキ特有の偶然と必然、不在の存在論的な境界文学は僕をやがてインドの見知らぬ土地でペソアへと思いを馳せさせ、漆黒の夜空の下、ナイチンゲールの声を聞く。
僕はタブッキとペソアを抱えたまま目を瞑る。インドで失踪してナイチンゲールになる。
澱んだ水槽で腐った尻尾の金魚なんかではなく、ナイチンゲールだ。
さて、タブッキ作品群の特徴と言えば、影と不在の存在論である。(※最もよく表しているのは、『インド夜想曲』より『遠い水平線』のように僕は思える)
『インド夜想曲』では友人シャヴィエルの不在を扱い、シャヴィエルと共に過ごした日々の中で、イザベルというある女が登場する。
のちに、ポルトガルのリスボンを彷徨う『レクイエム』でもイザベルという名の女は登場し、『イザベルに、ある曼荼羅』ではイザベルの不在が扱われる。
そして、『イザベルに ある曼荼羅』はタブッキの遺作でもある。
『レクイエム』と遺作の『イザベルに』は明らかに繋がっているが、『インド夜想曲』との繋がりは明示的なものはない。
それでも、これら三作品はタブッキの追憶とその追憶の中での人物たちの不在をテーマとしている、と僕は勝手に思っている。
この投稿をもしも読んで『インド夜想曲』が気になったら、
インド夜想曲
レクイエム
イザベルに ある曼荼羅
これら三作品は続けて読んでみてほしい。
(※僕はタブッキの全作品が好きだが、中でも『遠い水平線』、『供述によるとペレイラは……』が、上記の三作品よりも好きだけれど、『遠い水平線』が大好きだ、というひとと未だに出逢えていない)
そして、タブッキ作品はいずれも何度も読み返していくと、やがて誰しもが、あることに気付く。
彼がなぜペソアの異名者であるのか。
イザベルとはタブッキにとって誰なのか。
遠い水平線のスピーノやハムレットじゃないけれど
──彼にとってイザベルとはなんだったのか
哲学には成し得ない、虚構の文学に成し得ることをタブッキほど知らしめてくれる作家は稀有であろう。そしてペソアをこよなく愛するタブッキほどペソアを追いかけたものも稀有かもしれない。
「これは、不眠の本であるだけでなく、旅の本である。不眠はこの本を書いた人間に属し、旅行は旅をした人間に属している。」
──『インド夜想曲』 アントニオ・タブッキ
タブッキやペソアを愛するひとたちはたくさんいるだろう。いつか僕もそうしたひとたちに出逢えたら、この薄っぺらい世界に僕の塵みたいな文章をこうして書いたことに意味を持たせられるかもしれない。
大体、僕にとって、タブッキの作品は感想を書くこと自体、野暮に思えてならず、それなのに書きたくなり、書き始めると、止まらなくなる。
───
きっと砂浜を散歩するエレガントな彼女ならこんな野暮な感想なんて書かないかもしれない。
彼女の性別も年齢もどうだっていい。
とにかく僕はいつかすれ違っているかもしれない。
そんな夢を時々考える。
───
余談だが、タブッキ作品はいくつか映画化されており、本作も映画化されている。
いずれの映画作品も素晴らしい。
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