『黒いチューリップ』 アレクサンドル・デュマ
『黒いチューリップ』
アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)
フランス文学
1850年作
作品の舞台は三銃士のダルタニアンから二十年後くらいのお話だろうか。
勧善懲悪な冒険活劇で程よい純愛がある。
デュマの作品は三銃士ものやモンテ・クリスト伯など、ひとつひとつがとても分厚い。
そんなデュマの作品群の中でも、『黒いチューリップ』は奇跡的に小ぶりで一冊に収まるため、時々読み返している。
小ぶり故にモンテ・クリスト伯のようなスケールの広がりはあまりない。
しかしながら、デュマのペンの力の凄みは随所に感じられる。デュマは本当に登場人物を理不尽な形で牢獄スタートさせたがるなぁ、と再読していてしみじみ思った。
それがまた逆境を乗り越えていく力強さとも見えるから好きなのだけれど。
本書も例に漏れず主人公は牢獄にぶち込まれてしまう。
経緯はコルネリウスの名付け親であるデ・ウィット兄弟と関連があるとされたためであった。
このデ・ウィット兄弟は当時のオランダに繁栄をもたらした指導者だったが政変により失脚し、市民の群衆によって虐殺される。デ・ウィット兄弟虐殺は実際に起こった1672年8月20日の事件、政変後、市民たちに虐殺された兄弟たちのことを題材にしている。これについて、当時スピノザが激怒していたのは有名な話でもある。
本当にそうしたいのか?と立ち返ることなく、一時的な感情、つまり感傷が揺り動かされ、扇動され、扇動が扇動を呼び、残虐性が剥き出しとなる。
あらゆるファシストたちは革命を名目に群衆の感傷をコントロールすることにかなり重きを置いてきたのは歴史が証明してもいるであろう。
群衆心理を見事に最初の数ページで描いていたり、嫉妬や欲望の身近さ、それらから逃れられない人間の末路などが丁寧にかつ引き込まれざるを得ない書き方で描かれている。
人間の嫉妬や欲望における心理、市民と権力者、ロマンス、育てるという愛情
こうした普遍的なものを描かれている中で、登場人物の容姿の詳細などほとんど皆無である。
目が何色で髪がどうで服がどうで、といったことは全く必要のないものであり、それを書くことは読み手の想像を邪魔して「キャラクター」を押し付けるものでしかないことを諭された気がした。
チューリップの球根ひとつが数百万円だったチューリップ・バブルを象徴するデュマの文章だ。
その反面で、朽ち果てる花への讃歌は生そのものにも思える。
そのため、この一文でさまざまに想いが馳せられた。
子どもの頃から読み返したくなるほどアレクサンドル・デュマが好きだ。
モンテ・クリスト伯や三銃士に入る前に本書を読んでみると、色褪せないデュマの力強いペン捌きに魅了され、すんなりと他作品に入れるかもしれない。
嫉妬と欲望、裏切りや欺き、正義の押し付け───本作に描かれたこれらは、現代、とくにSNS、においても当たり前に渦巻いているように思う。
自分の欲望が簡単に叶えられる、というのは逆を言えば、それが叶えられないときヒステリックに他者を攻撃するという側面を持つ気がしてならない。
自己中心的ヒステリックな時代、現代文明の病の本質に絡んでいるように思う。
僕自身、どうであろうか……。
誠意とは、言葉のみならず行動そのものである。そこに他者への迎合などは論外である。しかしながら、誠意を軽んじ、自己の存在を認めさせるために努力することなく他者を利用し踏みつけていくことがあまりに当たり前になっており、それが飛躍した先に正義の押し付け、つまり、国家や民族間の争いに残虐性が増しているような感覚がある。
《満足》が安易に手に入れられて、それが叶わないと「独りよがりな正しさ」を押し付け合うのが現代社会の持つ危うい側面に思う。
主人公は球根を研究し発見したが、開花させたのは、主人公と恋仲になるローザ(薔薇)である。
苦しみを分かちあい、愛を育てること。
そこに出自や身分は介在せず、一時の感情───感傷に簡単に揺るがない誠意、普遍的愛が差し込まれているように思う。
嫉妬、欲望というテーマに興味のある方はぜひ。