遠い水平線のヘカベ
僕は何冊か常に持ち歩く本がある。
一冊はカトリック教徒なのもあり、新約聖書。
もう一冊は山本有三の路傍の石。
そして、アントニオ・タブッキの遠い水平線。
遠い水平線。希望を見出したいと願うことそのものに思えてならない。
そして、この物語は、今の僕には、赦しについて、考えるスピーノの物語に思える。
僕は、偶発的事象は偶発的事象でしかなく、そこに必然性を見い出そうとするのは、ひとの弱さや儚さ、愛情からくる。
そう考えている。
これは必然性を見出そうとする人間の脆さに対する肯定的な見方である。
なぜならば、必然性を見出そうとする根本的原動力は人が抱く愛するひとたちの安住の希望だと思うから。
人は希望なくして生きられない。
たとえ生きていたとしても、希望なくしては死んでいることと大差ない。
昨日も明日も変わりばえのないただの24時間後でしかない。
しかし、希望を見いだすと、明日というのは希望そのものでもあり、ややもすると「今日」よりも尊いものに見えてくる。
例えば、子ども。
子どもがいると、自分の今のことより、「子どもたちの未来のために」という大義名分が揺るぎなくなる。
ハムレットが第二幕で
What’s Hecuba to him, or he to Hecuba,
That he should weep for her?
と言う。
これは、ハムレットがトロイアの戦いの演劇でヘカベを涙ながらに演じているのを見ての感想として、ぽつりと言い、とめどない感情が押し寄せてくるかのように吐露し始めるシーンと僕は思う。
そのとき、ハムレットは演者に対して、泣くことか?という単なる疑問を抱いたのではなく、父親を殺した叔父への自分の復讐心に対して自問自答しているのだ。
と、僕は勝手に解釈している。
本書で触れられるヘカベとは、愛と赦しと単なる復讐との二項対立ではなく、そこに生まれる葛藤の際の自問自答そのもの。
つまり、これは、ハムレットの有名な台詞に呼応しているように思う。
To be or not to be, that is the question;
Whether ’tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles
And, by opposing, end them.
聖書での、使徒ペテロや裏切りのユダ、そしてイエスさまを磔に処すピエトの葛藤。
ハムレットがヘカベの演者に対して自分の葛藤を投影する葛藤。
大きく意味合いは異なるかもしれないけれど、告白、懺悔でもあるように見えてくる。
スピーノは、そうした諸々の懺悔あるいは葛藤をノーバディの過去を追う中で「ふと」漠然と考えたのではないか?
誰しもが大なり小なり小波を抱えて生きている。
未熟さや罪とも言えぬ罪を償い、赦しを受け、愛を知る。
生きる糧としてのパンが愛だとしたら、希望そのものが愛とも言えなくもない。
天使とフクロウ(光と闇あるいは啓示を伝信する者たち)の墓標でスピーノは悟ったのではないか?
墓標はタブッキのスピノーザへの挑戦そのものかもしれない。
今は、ヘカベとは、やはり社会風潮や時事問題に代表されるような人為的不条理そのものや自分の中でのあらゆる葛藤の対象、状況に僕は思える。
だからスピーノもそこに挑戦=生き、人生で起こりうる全ては偶発的事象でしかないけれども、因果関係を見出したい、見出そうとする「希望」を持ちたいと願いながらも、悟った瞬間、メモははためいて風に飛ばされる。
偶発的事象しかない。
そこに意味はない。
ペシミスト的な意味ではなく、ポジティブな意味である。
けれど、二項対立は権力にたいして味方する概念になりやすい。
そうした意味でも、スピノーザ的フラットな視線、あるいはたとえ無神論者的であれどもタブッキのように透徹な目は大事な何かがある。
二項対立の境界を行ったり来たりしているのが人間の弱さでもあるが、そんなものなのだろう。
そんな気がする。
うまく言えない。