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ハードボイルド書店員日記⑯

肉の多い大乃国。

「村上春樹の最初の読者です」みたいな顔でこの回文を教えてくれた同業者がいる。有意義度では「アクロイド殺し」のネタバレと甲乙付け難い。休日の朝、そいつからLINEが来た。某文学賞候補作への憤りが吹き出しに詰め込まれていた。
「知るか。今朝は頭が痛い」と打った。すぐに返信が来た。昨晩初めてのキスをした高校生カップルじゃあるまいし。しかも内容は「確か今朝、富松につまみと酒貸した」。神経を逆撫でする点においてのみ、春樹の比喩といい勝負だった。

「新作のお披露目はまたの機会に」
「冗談だよ。いい歳なんだから酒はほどほどにしろ」
「一滴も飲んでない。朝起きたらいきなり痛いんだ」
「マジか? 寝不足だと俺もなるが翌朝には消えてるぞ」
それは二十代のころの話だ。いまは前日の疲れや頭痛がしばしば眠った後まで持続する。自覚できるうちが華なのかもしれない。何も感じずに永久に眠り続けるまであと何段階残っているのだろう。

「おまえみたいに体力のある方じゃないんだ。休みの日は休む。誰が候補になろうと構わない」
「タレントとしての人気と知名度で受賞してもいいのか?」
「読んだ上で言ってる?」「当然」
奴は私が小説を書いていることを知っている。読んでもらったこともある。口は悪いが指摘は役立った。少なくとも愚にも付かない回文よりは。
「だったら平積みしなければいい」
「店長にどやされるよ。売れる本がいい本だ、が口癖だから」
返事を打つのが煩わしくなってきた。電話をかけるのも億劫だ。後頭部の疼きと尿意に耐えつつ文面を考えていると吹き出しが増えた。
「あいつと俺たちのヒーローが同じ賞の受賞者として肩を並べることを許せるか?」
「近代五種の金メダルはマラソンより価値が低いとでも?」
「それは話が違う。競技人口が少なくてもその中で頂点に立てば間違いなく金メダリストだ。彼らは実力に他の何かを上乗せして表彰台へ上ったわけじゃない」
確かにその通りだった。痛みとカフェイン不足のせいで頭が回っていない。だが彼の嘆きに同調するつもりもない。

私もそのタレントの著作を読んでいた。好みは別れるにせよ、人気にあぐらを掻いて適当に書き散らしたものはひとつもなかった。どんなジャンルにも出来レースで受賞するためのやっつけ仕事をして恥じない芸能人が必ずいる。彼は違った。彼にしか書けない小説を粘り強く真摯に綴っていた。原氏の沢崎シリーズがそうであるように。

問題は私の考えを正確に伝える術が直接話す以外に見当たらないことだった。「おい何か言えよ。俺の勝ちだろ?」頭の痛みも膀胱の膨らみも臨界点に近づいていた。結局この男は使い古したレッテル貼りで手軽に他人のマウントを取り、悦に浸ってストレスを発散したいだけなのだ。

私は裸足で駆けながら「わたしまけましたわ」と打った。ズボンを下ろす直前に返信が来た。「世の中ね、顔かお金かなのよ」

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