
短歌一首 ~ 御成敗式目
泰時が
真心こめた式目は
道理を守り六百年も
鎌倉幕府の3代執権・北条泰時が中心になり、幕府の要人らの協議によってつくられた「御成敗式目」は、全51か条からなる武士政権のための法令です。源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定されました。後書きに泰時の言葉があり、一執権にすぎない自分ごときがこうした一種の憲法を出すのは大変あつかましいが、世の中の道理というものがそれを認めてくれるだろう、と記しています。
また、その完成に当たって、泰時は、六波羅探題として京都にあった弟の重時に手紙を送りました。手紙の中には、式目の目的について次のような意味のことが書かれています。
―― 多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の上下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする規準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは「ものも知らぬ東戎(あずまえびす)どもが何を言うか」と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。そのような状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この「式目」は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったことを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な「道理」に基いたものなのだ。――
その、道理にしたがってできたという「御成敗式目」がいつの時代まで生きていたかというと、実は明治の大日本帝国憲法ができるまで続いたのです。鎌倉幕府滅亡後も法令としては有効で、足利尊氏も「御成敗式目」の規定遵守を命令しており、室町幕府が発布した法令や戦国時代に戦国大名が制定した分国法も、「御成敗式目」を改廃するものではなく、追加法令という位置づけでした。江戸時代には、寺子屋のテキストとして「御成敗式目」が使われていました。武家だけでなく、広く民間にも普及していたということになります。
それほどに長い間、一度も批判されることなく読まれ続けてきた「御成敗式目」。北条泰時が語っていたように、世の中の道理が、ずっとそれを認め続けてきたからですね。