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『蜘蛛の糸』を読んで
カンダタの行いを、お釈迦さまはお許しにならなかった。大泥棒のカンダタがかつて小さな蜘蛛の命を救ったのを思い出され、最後に彼にあたえたチャンスだったのに。
お釈迦さまはそのとき、カンダタにどのような行いを望んでおられたのだろう。地獄に落ちて血の池でもがき苦しみ、希望も何も失いかけていたところに、すーっと差しのべられた一本の細い蜘蛛の糸。千載一遇の助けとばかりに、必死にその糸にすがりついたカンダタ。しかし、自分の後から、アリの群れのように糸をのぼってくる多くの罪人たちの姿を見つけ、思わず「下りろ!」と叫んでしまった。
そのとたんにプツリと切れてしまった糸は、お釈迦さまの怒りの気持ちのあらわれに他ならない。でも、ちょっと思い悩んでしまう。私がカンダタだったらどうしただろう。この場合、カンダタと反対の行いは、みんなでいっしょになって上へのぼろうとすることだろう。お釈迦さまがカンダタに望んでおられた行いは、そうしたものだったのだろうか。
でも、私がカンダタであっても、そうした行いができる自信は全くない。他の罪人たちがのぼってくるのを許していたら、自分も間違いなく助からないからだ。カンダタは、何も他人を押しのけてのぼってきたわけではない。生きるか死ぬかの危急に臨み自分が助かりたいと思うのは、殆ど選択の余地のないごく当たり前の人間の気持ちだろう。それなのに、瞬時に断を下されなければならないほど許されない行いだったのだろうか。
私には、お釈迦さまが、カンダタのふつうにある人間の”素直な心”をもてあそんだようにしか思えない。もっとも、この物語のお釈迦さまはほんとうのお釈迦さまではない。ほんとうのお釈迦さまだったら、このようなことは決してなさらないと思う。