狂気好き「人間失格」太宰 治
恋愛小説を読み続けている。
読み続けていたらほわ~~~っとしちゃうから冷静になりたくて
太宰治の人間失格を読むことにした。
本棚にある本の中から、私を落ち着かせ、かつ恋愛小説ブームの火種を消さず、本から離れさせないようなものを吟味した。
それがなぜ人間失格なのかはわからない。
たぶん若かりし頃に読んだことはあるだろうと思う。太宰治の沈鬱な感じ
だけに憧れて「太宰治を読む私」に己惚れて読んだに違いない。
が、全く記憶になかった。最初の「ここに3枚の写真がある」のくだりぐらいだっただろうか。覚えていたのは。
ところで、最近読んだ本が立て続けに私の心を刺している。
それは私が認めたくない私。見なかったことにした私のことが書かれていたから。たまたまそういう部分が刺さったのだとは思うのだけれど
あまりにたまたますぎる。
自分って異常じゃないかって時々感じていた。こんなことを考える自分って。昔からこんなことばっかり考えていた私って。こんな時にこんな感情しかもたないなんて。あるいはこんな感情を持ってしまうなんて。
その「異常」はどこから来るのかというと、やっぱり不特定多数の周りの人間と比べて感じることなのだろうか。私としては自分の感情を人と比べるということを久しくやったつもりはなかったのだけれど、じゃあ何をもって「私って異常じゃないか?」と思ってきたのだろう・・と思う。
異常じゃないかな?と思った時に、それを自分で認めたくないとすれば
私は「異常ではない」と思いたかったということか、と考える。
そうするとまた振り出しに戻る。「異常」と「異常じゃない」って
どこでわけるの?誰が判定するの?
さて、冷静になりたかった私が読んだ人間失格は、というか
それを書いた太宰治さんは、噂には聞いていたけれど相当キテいた。
子供のころから自分じゃない自分を装い、明らかに自分を見ている自分がいる中で大人になっていき、時折それを見破る友達に出会っては
その人を取り込み、酒と女に溺れ、すぐ死のうとして自分だけ生き残って
またうだうだ考えて同じことを繰り返していた。
「この人、いい加減全部自分だって認めなよ」と思った。
こんな何物でもない私でも案外あっさり「私っておかしいかも。でもそれを認めたら楽~~~」って到達したのに
太宰治さんともあろう者がいつまでもいつまでもぐちゃぐちゃ考えているなんて・・。まあそこが太宰治たる所以なんだろうか。
結局到達しないまま死んでしまったのだろうが。
文章の中で「〇〇である(~~~~~~~~~~~~~~。)」という箇所があり、というのは表立って文章を書いてあるのに、自分の胸のうちを
カッコ内に書いてあるのだが、あきらかにカッコの中の方が自分の書きたいことなのにまとまりがつかず、ぐっちゃぐっちゃ言ってるのだ。
私も友達にLINEを送るとき、LINEなのにカッコをつけて自分の胸の内をそこに書いたりする。自分でも変なの、と思いながら書いているけど。
私は廃墟が好きとかシリアルキラーを題材にした本やドラマが好きとか
人の心の闇に惹かれるとか、ロシア音楽の繰り返すところが好きとか、人を圧迫してくるような人工建造物が怖くもあり見たくもあるとか
「なんでこんなものばっかりに惹かれるのかな」と思っていた。
ここ最近興奮が冷めず「ジョーカー2」に関してあっちこっちで騒いでいるのだが、ほんとに映画を観終わったあと私は次男と一緒にいたにも関わらず
ただ茫然として一方でにやけてにやけてしょうがなかったのだ。
本当に私どっかおかしくね?と思ったけれど仕方がない。
大げさじゃなくあの映画の全てが私が求めていたもの、恋していたもの
欲していたものだったのだ。
それらは何かというと「人の狂気」だ。
何かを読んで見て聞いて、私が興奮するもの惹かれるものは「人の心の狂気」だったのだ。
そうすると今まで「?」と思っていた点が線となった。
昔読んでもわからなかった「人間失格」も、要は太宰さんは狂ってる部分があってそこを認めたくなくてうろうろしてたんだね!と勝手にすっきりしてしまった。
そうじゃないそうじゃない、と彼が言ったとしても「いやいや、そうなんだって。認めたら楽になるよ」と取り調べをしてかつ丼を提供するようなデカなみに太宰さんに甘い言葉をかけたい気持ちだ。
私がそれを認めた所で「やっぱりおかしいんじゃな~~い」と自分を思う気持ちはなくならないけれど、どうりであーゆーのやこーゆーのが好きだったわけだわ!と合点がいった。
私は太宰さんとは違って「こんなんじゃない。私はこんなんじゃない」と悩むタイプではないので今までも「なんかおかしいな」とは思ってて
答えが見つからなかっただけで特に普通に生活してきたし
これからも変わりはないだろう。むしろ方向性が定まって嬉しい(?)。
こういうことを「人間失格」を読みながら考えていたら
ある聞いたことのある言葉が頭の中に流れて来た。
それは「深淵をのぞくとき深淵もまたこちらをのぞいているのだ」。
本来の意味は違うのでしょうが
私はのぞいている自分を少しみることができて
なんだ、そこにも自分がいた!と思ったし、太宰さんもそうしてみればよかったのに。と思ったのでした。
まあそんなに浅い話じゃないってのはわかってますよ。