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アドラーさんに顔面殴られたけど起き上がって目を開けたら視界が拓けた話。(勇気の心理学)
もともと心理学科卒だけど、アドラーについてはそんなに探求してこなかったなぁと思いながらふと気になって手に取った「嫌われる勇気」。
卒業しておきながら心理学めちゃめちゃ詳しいか、と聞かれると全然そんなことないしむしろ学生時代なんてとうの昔だし日々その学問に触れられるかといったら全くといっていいほどなんだけど、と前置きしつつ私はフロム派です。(フロイトではない。)笑
この一冊は哲学の鉄人と青年との対談形式でなされていて、正直対談形式で展開されている書物に苦手意識がある自分はAudibleでこれ聴いててよかったなぁと読んだ直後思った、というのはここだけの話。
人は生きていくうえで何か背負ったり闘ったりする対象がある、と思っていたんだけどもアドラーさんによれば
不安や恐怖は「こしらえている」。トラウマは存在「しない」!
今のライフスタイルをやめる決心がつかず、変わらない自分への言い訳だ!
とガツンと言い放たれます(放っているかは置いておいて)
今までの人生を振り返って一番「挫折」と呼ぶに値した経験をしたときのこと。結構自分なりに考えて進んでたつもりが、思うように立ち行かなくなり今までの積み重ねとはいったい何だったのか、何のための数年間だったのかとどん底に落ちていた。人に話して解決するタイプではないので、ずっとぐるぐる自分を責めつつも這い出せずに沼に浸かっていたように思う。
ある時「この沼に浸かり続けることに意味はあるのか」とふと疑問に感じた。多分どん底の中のどん底まで堕ちきっていたのかもしれない、もう何も怖いものはないように感じているのにこのままここに居続けて何になるのか…でもそこから這い出すにはとてつもなく勇気がいって、誰も保証してくれないし、どうなるかも分からない全くの未知、賭けるほどの価値があると思えない。そんなことからこの沼に浸かっていることには自分を救い出してはくれないものの、守っていてくれるというメリットがあるように感じたのを覚えている。その時はふとそう感じたり思ったりしただけで今の今まで忘れ去られていたけど、実はあの時変わらない自分への言い訳として不安や恐怖をこしらえていたのかな、と今になって思う。
トラウマは存在しない、と自分にはまだ言い切ることができるほど納得していないけども、主観的な世界は共有しえないこと、また劣等感は主観的な思い込みであること、劣等感と劣等コンプレックスは別物であること、すべては勇気がたりないことから。。。ゆえにアドラー心理学は勇気の心理学であることなどには読んでいてしっくりくるものがあった。
賞罰教育がむしろ自分には能力がないという信念を形成していく…ということに驚きを隠せないが、親となった自分がどう賞罰抜きに子どもと接することができるかの糸口はまだ見いだせず…(ムズくない?何か出来た赤ちゃんにえらいねー!すごいねー!って言わない?!?!)
あと最近ずっと抱えてた焦燥感的なものはこの一冊にバッサリと切られて無くなりました。ってのもね、アドラー先生に怒られたんだ
『ありもしない過去や未来にばかり目を向けて人生の大半を「途上」としてしまっていいのか?人生における最大の嘘は今ここを生きないこと、人生全体に薄らぼんやりとした光を当てているから「見えたつもり」になっている、今ここに強烈なスポットライトを当てて連続する刹那を生きよ!!!』
と。ハッとさせられました。ぼんやりとした「何かになっていない今」を空虚な途上として過ごしてていいのか、いいわけがない。今は今しかないのに、なぜいつかのための今にしてしまっていたんだ・・いつかが何をさすかも分かってないしこの先分かるとも限らないのに。今ここに強烈なスポットライトを当てればココがまぶしすぎて他が見えないはず。点の連続である人生、刹那刹那が連続するその繰り返しがふと気づいたときに「ここまできていた」になること。高邁なる目標のために今を犠牲にするのではなく、今しっかり向き合うことで人生を先延ばしにしないこと。
最近読んだ本の中で一番勉強になった。顔面パンチ食らって頭ぐらぐらしたけどゆっくり目を開けたらスッキリした景色が広がってた的な。
次はもちろん、「幸せになる勇気」も読みます。笑