一切の努力をせずに、なりたい自分になる。なれた。
何かしらの特性や隔たりがあって生きにくいとされる人たちが大きな声を上げて、自身の生きづらさを共感して貰えるような時代になった。
そんな時代だからこそあえて言おう。
私は、生きることがめちゃくちゃ上手い。
しかしここでは己の惚気を披露する訳でもない。まぁ最後まで読みなさい。
生きるのがめちゃくちゃ上手いというか、運がいいのだと思っている。
【クソ長自分語り】※飛ばしていいよ!
自分の運の良さに気づき始めたのは、中学3年生の冬。高校受験を経てからだ。
公立の第1志望校に合格するため、当時は死に物狂いで勉強をした。毎月行われる模試では常にA判定であったものの、当時不安症だった私はその結果に満足することなく、受験近くになって勉強することがないという所まで勉強をし尽くした。
そのせいもあってか、受験当日の問題が、過去に類を見ないほど簡単であったのだ。これは運が良かった。受験後の自己採点では過去最高記録をたたき出し、もちろんその高校に合格することが出来た。
塾の先生には、「この点数ならもっと(偏差値的に)上の高校にも余裕で受かってたのに…」と言われたが、そんなの知らない。当時から自分のやりたいことをするという軸だけは強く持っていた。
かくして私は、それ以降の人生において一切の努力をしなくなった。
私の高校では、毎年強制的に英検を受けさせられた。学校が2級までのお金を負担してくれるというものであり、準1級以上を受けたい場合のみ、その差額分を別途支払って受験をすることが出来た。
しかし資格というものに全くの興味がない私である。毎年強制的に全員受けさせられるということもあり、勉強なんてするはずもなく英検に挑まされた。
結果は1年時準2級を2次試験で不合格。当然であった。面接の際にゴリゴリに日本語で聞き返してしまったために落ちたものだと思われた。
しかし2年時、とりあえず2級は受けてみっか!のノリでまさかの合格。もちろんノー勉である。
この経験は現在の塾講師のバイトにおいてとても苦労している。
適当に受けた英検であったため、自己採点なんてするはずもなく、なぜ当時英検に受かったのかが分からないため、英検の指導が全くできないのだ。こんな苦労もあるにはある。
そして大学受験。
高校3年生になった当時は一般受験をするつもりだった。そのため東進に高い金を払って映像授業を受講した。
しかし結論から述べると、私は一般ではなく指定校推薦を使って大学に合格した。これは自分でも想定していなかった。
高校3年生の夏休み明けのことである。
毎年夏休み前に指定校推薦の枠というものが高校に掲示される。「○○大学、××学部、○人」みたいなのがズラーっと並ぶあれである。
夏休み前に掲示された○人の枠を勝ち取るために、初めから指定校推薦を目指している人達は1年生の頃から日頃のテストを頑張っていたのだ。一般受験をする予定しか無かったその時の私はその掲示すら見ていなかった。
しかしここで天啓が下された。
高校生活最後の夏休みが明け、指定校推薦の校内選考の結果が提示された頃、地獄の夏期講習に苦しんだ私は指定校推薦の枠が掲示されているその紙をチラリと一瞥した。
すると残っていたのだ。第1志望の大学と学部が。
指定校推薦の枠は1度で全て埋まるものでは無い。夏休み前に希望を出した後、それでも空いている枠に再び希望を出すことが出来るのだ。
私はダメ元でその第1志望の大学の推薦を取りに先生に相談した。
結果、校内選考にて合格。その学校の推薦を申し込むのに必要な評定が3.5以上であるのに対して、私の評定は3.6であった。
他の生徒が1人でもその大学を志望していたら間違いなく校内選考で敗れるのだが、運良く誰もその学部に志望することがなかったため、私の大学受験はここで終わった。
その時の私は、大学は受験をして入るものだと思っていたので、まさか名前を書くだけで終わったなんて思いもしなかった。指定校推薦のために日頃のテストを頑張るなんてこともしたことが無かったため、ほんとにラッキー!としか思わなかった。
就職活動に関しても同様であるが、この話はここではすることが出来ない。
一言で言えば、なんの対策をするでもなしに自分の夢を叶えることが出来たということである。これも本当に運が良かったと言うしかない。
【本題】生きるのが上手くなるために
私が何故ここまで運良く、流れる川のように人生を送ることが出来ているのか。
それはたった一つ、私が面白いに流されることを軸に生きているからである。
進学先も就職先もその時の能力や得られるお金などに縛られることなく、ただ自分の入りたいところ、やりたいことが出来るところを目指した。
私が今まで努力をしてこなかったと自覚をしているのは、自分のやりたいこととやらなければいけないことがたまたまマッチしていたからだと思う。
私個人の感覚として、努力という言葉は「やりたくないけれどやらなければいけないこと」をやる時に用いるものだと思っている。
やりたくないことをやる理由として美化しているに過ぎない言葉である。
そのため、これまでの人生でやりたくないと思ったことの全てをやらなかった、反対にやりたいことだけをやってきた私にとって、それらに熱中した時間は努力では無い。ただ楽しくて、気づいたら結果が伴ってきたレベルのものであるのだ。
だから私は運がいいと思える。自分のやりたいことだけをやって、結果があとから着いてくるのだから。
こんな無敵熱中ゾーンに入るためには、面白いを見つけるセンサー、いわゆる知的好奇心的なものを育てる必要がある。気がする。
こう言ってはなんだが、私は馬鹿みたいに知的好奇心だけはある。0から1を生み出し続けるのが好きな人間だ。
その分飽きっぽいということもあり、その1が100になることは1度としてないが、それでもたくさんの1を築き上げてきた。
今から知的好奇心を育むためには?と言われたら、、、、。うーん。。。
死ぬほど本や映画を見ろとか楽器をやれとか言いたいけど、それが刺さるのは元から知的好奇心がそれなりにある人だけ…。
せめてカメラをやってみてはいかがでしょうか。
同じ一輪の花でも、撮る時間、天気、アングル、レンズによって全く異なる姿を写すことが出来ます。
本気で写真に向き合うことが出来れば、たとえスマホのカメラでも世界を多角的に見ることが出来るのでオススメしたいですねぇ。。。
あとはお金を惜しまないとか!それくらいしか言うことがないです。
世界のあらゆる欠片から面白を見出す力。それさえ育むことが出来れば、なりたい自分になれる気がするよって言う話でした。