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紫の火花|詩|そして物語の生まれ方、つくられ方
何かの過ちのように愛しあった
紫色のヴェルヴェットを拡げたあの部屋で
新月の闇の中
白い百合を
血も滴る深紅の薔薇に変えたのは誰
ピアノの甲高い音が
夜を綺麗に切り裂いて
鈍色の空
薄玻璃の凍った月が
砕けて散る
星降る夜
花の香りに酔うのは
もうやめたの
あなたを探したくなるから
橋の向こうで
紫色の火花が散っている
見えるでしょう?
太古の昔
乙女たちがもう二度と
誰ひとり恋しなくても済むように
氷の棺に閉じ込めた火花
それを溶かしておきながら
なぜ流れ去るままにしたの
この世のどこにもいないのに
私を呼ぶのはもうやめて
忍び込んだ指先を
忘れる花はありませぬ
泣き女のように戸口をさまよって
ひとつひとつの扉を叩く
この世の女たちの涙を尽くすために
美しいたそがれや
泥に咲く睡蓮や
薄い翅の蝶に
透明なかげが
ほの見える
何を見ても もう
ひとつのものしか見えなくなった
深い森の中で
郭公が啼いた
優しい声で
私を呼んでいる
行ってみようか
呼ばれるままに
啼き止んだあとの静けさが
たまらなく怖いけれど
きっとその樹のふもとで
私 あなたを
見つけてしまう
もう二度と
目を開くことのない
輝かしい姿を
火花のように美しかった眼を
この手で閉ざしてあげることさえ
できなかった悲しみを
永遠に朽ちることのない
あなたのからだのそばに
うずくまって
私も眠ることができたらよかったのに
その代わりに 私
郭公の啼く樹のうろに入って
膝を抱え
ゆっくりと青ざめていきながら
眠りに就くわ
やがてその樹が
立ち上がり
緑の腕を伸ばして
ガラスの棺に眠るあなたの上に
優しい木陰をつくってくれる
その源となるために
この女性はいったい誰なんだろう。
詩を書いた後で読み返してみて、誰なのかわかるときとわからないときがあります。
女性もわからないけど、男性の方がさらにわかりません(^^ゞ
たぶん、ケルトの伝承とか神話とか、そのあたりの人たち(のヴァリエーション)かなとは思うのですが、あいにくその方面はよく知らないのです。
...というのを前置きに、中島智さんのポストを引用します。
画家はそのモチーフから何かを受けとる。それは「何か」であって、表現内容ではない。表現内容をそのまま画面にトレースしていくわけではない。むしろ「何を受けとったのか」を見たいから描くのである。しかし「描くことによって見えてきた何か」は、絵が考えた何かで「最初の何か」とも同一ではない。
— 中島 智 (@nakashima001) August 23, 2023
中島智さんのポストは、いつも「そうだったのか!」「仰るとおりです」感がすごいので、週に一度くらいの頻度で、noteに引用して大騒ぎ🎵したくなります。
でもあまり度重なると鬱陶しいかなと思うので、自重。
興味をお持ちの方はすでにX(旧Twitter)を見ておられるのでしょうし。
絵の生まれ方についての投稿ですが、基本的には同じなので、今回は、詩になぞらえて説明してみます。長くなるといけないのでさわりだけ。
まず「モチーフ」は、今回の場合、詩の一行目。
「何かの過ちのように愛しあった」
が、唐突に降ってきて。なにやらただ事ならぬフレーズ...とりあえずスマホにメモφ(.. )
これはどういう情景なんだろうか。明らかに物語の一部です。
それで、続きを読みたいわけですが、そうなると自分で書くしかありません。
「激しく」ということなのか「ひそやか&道ならぬ」なのか、「幸せだっただけにあとが苦しい」ということなのか、よく意味がわからないけれど。「何かの過ちのように」愛し合うのならきっと、ベッドとかではなく、紫色のヴェルヴェットの上だろう(?)と、とりあえず二行目を書く。
なるほど、やっぱりそうだったのかも。(そういうときはヴェルヴェットの上みたいなことになるのか...と変に感心しつつ。)
(ちなみに、私が思う「愛」の色彩は、冷静の青と情熱の赤を合わせた紫。ヴェルヴェットの「手触り」は芥川龍之介のなにかの恋歌の「手触り」(だけ)がよぎったためだと思われます。短歌を読んだときに、なめらかな手ざわりとして入ってきました。ふっと撫でられた感じ。知識は忘れても体感は忘れないものです。──たどっていけば、そういった無数の重合、化学反応の連鎖が起きているのかも。)
となると、この物語が持っているのはこういう単語、こういう景色なのかな?
と、置いてみる。
それで大筋は良さそう。
──という作業を少しずつ、数日に分けて、行っていきます。そぐわない言葉を置いてしまったら、不純物なので取り除きます(探偵の推理と似ている気がしてます。)
そのあとで、前後を並べ替えて意味の通りをよくし、言葉を足したり削ったりして整えます。
私が言葉を当てはめてはいますが、物語自体が「考え」、「成長」していくように思います。(肥料と水をあげたらひとりで育って自分の花を咲かせる植物のように。)
たとえば半年後に一行目から始めたら、違う内容になると思う。つまり、出来上がった詩は、「最初の何か」「モチーフ」とはまったく
同じというわけにはいかない、ということ。
いつもそのようなやり方とは限りませんが、詩の中でも物語詩や、小説を私が書くときには、たいていこういうつくられ方、生まれ方をしているように思います。
他の皆さまは、絵にしてもことばにしても、どうやって作ってらっしゃるのか、興味があります(^^)/
引用いろいろ...創作をしておられるnoter様方へのエールとして。
ご興味があれば…m(_ _)m
中島さんは、三個口セットのポストをしておられることが多いので、気になったポストは前後のものも読んでみるとわかりやすいかもしれません。
ずっと「迷ったら基本に戻れ」と、卒業生たちに送ってきた。基本、根幹さえ忘れなければ、なにがあっても大丈夫だ。根幹に戻って、また暖かな日射しに誘われて枝葉で咲けばいい。それは根幹を生きたままにするために咲くのである。そして萎れたら、また根幹に戻ればいい。
— 中島 智 (@nakashima001) December 20, 2022
↑「根幹を生きたままにするために咲くのである」に泣きそうになりました
不運と幸運はランダムに人生に降りそそぎ、最期だけが平等に当選する不運なのだけれど、肝要なことは幸運を自らの才能と結びつけて自惚れることではなく、不運を自らの無能と結びつけて凹まないことである。大抵のことは「そうきたかぁ」と受けとめて然るべきものなのだから。
— 中島 智 (@nakashima001) July 29, 2023
才能は、才能と呼ばれる前は、ただの癖。だから癖はなくそうとしないで、それを面白がる仲間と付き合ったほうがいい。面白がってくれる先生、先達ならさらにいい。
— 中島 智 (@nakashima001) September 4, 2023
自分にとって必要なことかどうかは自らの〈生〉に訊くしかない。この傾聴ができないと承認欲求オバケになってしまう。承認欲求というのは自らの〈生〉の声にも、それを聴きとる耳にも確信がもてない人が、その判断を周りに委ねようとする逃避衝動である。つまり〈生〉への足枷をもとめる自縛である。
— 中島 智 (@nakashima001) September 11, 2023
自分の人生にとって必要なことは自分にしか判らないのだけど、周囲に承認という名の許可をもとめることで〈生〉はないがしろにされ、しだいに声を発さなくなっていく。怖いのはここである。
— 中島 智 (@nakashima001) September 11, 2023
有用性とか社会的価値によってなにかを証することが阻害するのは、ヒトに先天的に仕掛けられた「呪われた部分」、芸術衝動などを湧き立たせる根源的な余剰性について問うことであるとバタイユは述べた。それは社会的視座からはけっして視えない、欲動というものの非個人性にまつわる問いである。
— 中島 智 (@nakashima001) September 10, 2023
「みんなのためになりたい」というのは「みんなに認められたい」としか言っていない。そして「みんな」とは「誰でもいい誰かタチ」のことなのだから「誰でもいいから認めてほしい」としか聞こえてこない。「みんな」を目的語にする人は「わたし」しかいないのである。
— 中島 智 (@nakashima001) September 16, 2023
よくある構文に「色々たいへんだったけど糧に/タメに/学びになった」とか「辛かったけど後悔はしていない」あるいは「これやってきて正解」といった言い回しがある。これらは明らかに閉じた自己暗示であって、このポジティブさは他者のネガティブ状況にたいする不寛容さ、不快感として虐待的になる。
— 中島 智 (@nakashima001) September 18, 2023
↑私がハッピーエンドの物語に感動しつつも落ち着かない原因。懐にナイフを隠し持たないハッピーエンドを書きたいです。
絵を描くことは、ニンゲンから解放されることである。だから、なにかのために、とか、どんな意味や価値があるか、とか、そういうところから出られるのである。世界とともに、溶けだし、生に、エクスタシスすることである。絵は、そうしたまぐわいの痕跡、デキゴトの爪痕として、そこに残るものである。
— 中島 智 (@nakashima001) August 4, 2023
一枚の絵画には、その画面のまわりやその彼岸に「描き得ないもの」の世界とか「描かれなかったもの」の歴史とかがあって、絵画が絵画として存立するためにはそれらを削ぎ落としていくのではなく並立していくことが肝要になる。だから「描く」ばかりが勝ってしまうと「描かされる」まぐわいが減退する。
— 中島 智 (@nakashima001) September 23, 2023
鑑賞とは他者と出遭うことである。他者と出遭うには心得がいる。なにも心得がなければ鑑賞者の「見たいもの」しか見えなくなる。それは未踏地の、深い密林で、妖獣に出遭うようなイメージで考えればよい。「見たいもの」を捜していたら見えない。「見たいもの」を初期化する心得がなければ出遭えない。
— 中島 智 (@nakashima001) August 20, 2023
未知の妖獣に出遭ったなら、「何者かであること」を捨てなければコンタクトもできない。これは妖獣でなくても犬猫でも同じである。ニンゲンとして、ニンゲンのままで対話することは叶わない。他者と出遭うには「私のまま」では無理である。だから「見知らぬ私/私たち」がそこに現れてくるわけである。
— 中島 智 (@nakashima001) August 20, 2023
自作品の判別例
— 中島 智 (@nakashima001) September 14, 2023
理知でつくられた作品は「良し悪し」がわかる。学習された規範がそこに表れているからである。
感情でつくられた作品はしばらく置くと「飽き」がくる。感情には持続性がないからである。
情動でつくられた作品は「良くも悪くもない」けど「なぜか眺めていられる」。これが重要作品。
情動はけっして古びない。100年前の造形でも1000年前の思想でも、その情動が受けとれたなら古臭くはならない。古びてしまうのは思考枠だけである。思考枠は社会がかわるだけでかわる。時代によっても地域によってもかわる。しかし情動は思考枠をこえて感染してくる。その情動を発露した人物に逢える。
— 中島 智 (@nakashima001) July 25, 2023
↑昔、心理学の本からやってきた"情動"という言葉が私の中に棲み着いた。「感情よりも深い感情」かなと思っていたけれど、「身体を持った人間としての無意識」なのかなあ🤔 辞書的な意味以上の得体の知れなさ。
こころに癒やしをもたらすのは、言葉ではない。身体しかない。都合のよい言葉ばかり探している間に、都合のよくないものを増やしてしまう。この「社会」だけが居場所ではない。この「星」にいる身体はもっとめんこい。
— 中島 智 (@nakashima001) September 12, 2023
以前も書いたが、初対面の人にはかならずその人の生誕を想い、そしてやはり死の床を想う。結局「いるね/いるよ」関係こそがすべての基本みたいなのである。その実存のまえでは意味や価値、「あなたが何者であるか」といったことは些末にすぎない。この星で、どうかめんこい夢を。
— 中島 智 (@nakashima001) July 26, 2023
タイトル画像は:NATALLIA VASILIUK様@stock.foto です。
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