問題提起から各々の心と頭で考える=アート
先日こちらに初めて行ってきた。
私が芸術祭なるものに行くのは人生初だ。
毎年やっていたのに、時間的制限があったりしていくことができなかったが、ふと一人の時間ができたので行ってこれたというわけだ。
直感で、いま行きたい!と思ったので足を運んだ。
今ニュースで「表現の不自由展・その後 の作品を撤退する」ことが話題となっていて、それに触れられた記事も多いと思うので、今回は私はそれにあえて触れず、初めて参加したアートの祭典についての全体としての感想を述べようと思う。
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気になった展示をいくつか(ネタバレあり)。
◇ウーゴ・ロンディノーネ|孤独のボキャブラリー
全体として、一人の人間が、人生のとある一日、その24時間で繰り返し行っている家の中での孤独な振る舞いを示しています。
広い会場に、カラフルな衣装を纏ったピエロが沢山。圧巻である。
目をつぶっていて、色んな体勢をとっている。
最初はどのピエロが一番好きかなー、なんて見ていたのだけど、見ているうちに、ピエロが醸し出す少しばかりの「闇」を感じてきた。だから見方を変えてみた。
あんなにカラフルな衣装を纏っているのに、なにかをしきりに思案しているような表情。
ピエロだからこそ、その外と中の雰囲気のギャップがより際立つ作品だなと思った。おそらく世の中の人も、多くは外と中でいろんな葛藤があるんだよね、と。
◇菅俊一|「その後を、想像する」
他にも絵本の中で面白い仕掛けを作り、人の頭の中で実際その後どうなったのかを想像させる作品も。
無いものを人間の頭が補完している、ということを改めて気づかせてくれる作品。
◇ヘザー・デューイ=ハグボーグ|Stranger Visions, Dublin: Sample 6
近い将来オンラインで個人情報を収集するのと同じくらい、遺伝子情報を収集することが一般的になるだろうことを示唆しています。
とある人のDNA情報をその人の所持品、使用したものから採取して、3Dプリンタでその人の顔を作り出すという展示。
写真は、自分が生活する中で残してしまうDNA情報を消したり、別のものに置き換えて、自分の居た証拠、事実を消してしまうキット。
近未来小説を読んでいるようだったが、こういうことが本当に現実化する日も遠くはないのだろう。悪用されれば事件に巻き込まれるし、怖いなぁと思った。しかし、これを例えば大切な故人を偲ぶツールとして使えたら、悲しみにくれる人たちの光となりうるかもしれないとも思った。
◇文谷有佳里|「ガラスドローイング」
美術、音楽、建築のバックグラウンドを持ったドローイングを制作する。
曲線と、気持ち良いほどまっすぐ伸びた直線がまるで音楽のように混じり合い、一つの作品を構成している。
繊細な線ながら、強い意志を感じる作品で心を奪われた。
◇dividual inc. |ラストワーズ/タイプトレース
あなたは人生の最後に誰かに言葉を遺すとしたら何を書くでしょうか?制限時間は10分。執筆のプロセスを記録し、再生するタイプトレースを使って、たくさんの人からラストワーズ<最後の言葉>を集めています。
画面にはいろんな人のラストワーズが、10分という制限時間の中で必死に届けようとタイピングされるところが映されている。
入り口入ってすぐには一つのパソコンのディスプレイと、手前にはキーボードが。
勿論そこに打っている人は居ないのだが、キーボードが一人でにカチャカチャと忙しなくタイピングされると、ディスプレイにはタイピングされたラストワーズが表示される。
そこに人は居ないのに、あたかも誰かが必死で自分の人生の最後に、そしてたったの10分で伝えたい、伝えなくてはならないという気迫溢れる雰囲気がヒシヒシと伝わってくる。
ひたすらタイピングされる音が響き、必死すぎてちょっと恐怖も感じるが、同時に切なくもなった。
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他にも社会的な問題を取り上げた展示、映像なんかもあって、普段は新聞やニュースで見かけてもどこか自分とは関係ないと無意識に思ってしまっていることを、改めて考えるという機会を与えられた。
とてもじゃ無いけれど、数時間で見られるものではなかった。
一日中ずっと居たって、その一つ一つに込められたメッセージと、そこから自分がじゃあ何を考えるか?という問いかけは終わらない。
今の時代、ケータイでキーワードを入力すれば、なんらかの答えが表示される。
A=Bといったわかりやすい答えが。
でも物事の本質はそうではないはず。
目の前の事実からどう考えるかはA=Bなんかで規定できるものでは無い。
作者により与えられた提案に対して、どう解釈して行動するかは、個人個人にかかっている。
学校のテストみたいな絶対的正解がないということ。
だからすごく面白かった。
作者の世の中の切り取り方にも驚いたし、それをどう捉えるか、ヒントや正解なんてまるでないところに。
でもそれって、本来なら人が生きていく上では絶対必要不可欠で、必ず一つ一つの物事に対してやっていくべきものだ。
それがしにくい現代。
だからこそアートはより必要になっていて、より身近な存在にしていくべきものなのかもしれない。
そして、ここに展示されている作品の作者たちは、すごく有名だったり、沢山他の作品も発表しているプロばかりだけど、
何もそういう人たちだけしかアートを許されているわけではないはず。
このnoteで絵や詩を作ったり、文章を書くことだってれっきとしたアートだ。
自分の中から溢れてくるものを表現して、そこにオチをつけたり何か答えを提示しなくても、それでいいのかもしれない。
そんなことを感じさせてくれた芸術祭だった。
勿論回りきれなかったところが沢山あるから、再度ゆっくりと訪れたい。