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選評をいただいて~聖書エッセイコンテスト後日談~

前日談

3回聖書エッセイコンテストに応募したら、特別賞《あまり賞》をいただきました。

嬉しい選評

授賞式後に公開された結果発表Webページで、林あまり先生の選評を読むことができました。当日のお声掛けも嬉しかったのですが、こうして文章でいただけたのが嬉しくて嬉しくて、スマホを握りしめて何度も何度も読んでいます。

照れる!!

林あまり先生の『心に響きました』とのご評価もありがたいものでしたが、『明らかに放置され、虐待を受けていた筆者』と書いてもらえたことで、「そっか、私って放置されて虐待を受けていたんだな」とスーッと強く実感できてしまいました。
頭では「実家でひどい目に遭ったよ」と思ってはいても、自分がそう言っているだけだから、それは「UFO見たことあるよ」とか、「幽霊って実在するんだよ」くらい不確かな話でしかありません。実際、家での状況を吐露すれば、牧師さんもカウンセラーさんも異口同音に言うのです。
「親の心子知らず、ってね。わが子を愛さない親はいません」
傾聴のプロフェッショナルさえ、目の前の私の話より、そこにいない『親』の誠意を信じ、そこに愛があると疑いもしないのです。
希望を持つことも絶望することも疲れます。失望は人を嫌いにさせます。だんだん私は家族の話を人にはしなくなりました。そうだね親は愛だよねと、人に話を合わせていた方がいいと早くに学んでいました。
それだけに今回、私が母との腐臭さえする経験の一つをありのまま淡々と書き、そこから「明らかに放置」されていたと読み取って、「虐待を受けていた」と解釈し明言してくれた林あまり先生には、走ってハグしに行きたいくらい、嬉しく感謝を覚えました。
言葉をそのままはっきり信じてもらえるのって、こんなにありがたいんだな、と痛感しています。おかげで自分の歩いてきた道の輪郭が、くっきり見えてきた気がします。考えないようにしてきたけれど、たしかに茨の道でした。環境は人を歪めます。それゆえここまで捻くれたのです。今でこそ口と態度が悪い者ですが最初は私もいい子でした。私は自らなりたくてこんな罪人になったわけではない、そう過去の自分に証明できたような気がしました。気分が晴れました。

後日、聖書協会広報の高橋章子主任から、清涼院流水先生の選評もお送りいただいて、それもすごく嬉しかったです。載せていいか伺っていないので転載しませんが、対談(鼎談かな?)でもおっしゃっていた「迫力」との言葉を使ってくださってたので、「うわあ!うれしいな」と素直に思いました。

またTwitter(X)を通じ、松谷信司編集長から前掲のnote記事へのコメントを頂戴しました。

嬉しかったです。
こんな一気にポジティブなできごと、明るい交流を経験したことがないので、高揚を超えてパニックに陥っています。パニックのまま、林あまり先生が選者を務めておられるという『信徒の友』の短歌コーナーに投稿する作品を作り、随筆をいくつか書いて公募に送り、聖書エッセイコンテストの副賞でいただいたまっさらな新約聖書を通読して懐かしみ、バタバタと過ごして改めて感じました。あったかいなあ、と。心に火を灯していただいたんだなあ、と。常に漫然と感じていた、茫漠とした悲しみは癒されました。私を助けてくれなかった神様なんか大嫌いなのに、その神様を信じて正しく生きる人たちの優しさに助けてもらったことの悔しさと可笑しさで私は豊かに満たされています。まったくもう。
いまの気持ちに近い短歌を、大事にしている林あまり先生の本から引用させていただきます。

『最後から二番目のキッス(河出書房新社)』より

関わってくださった各位に感謝いたします。

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ビワシュ
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