映画「瞳をとじて」🎬ビクトル・エリセ監督
人気俳優が映画撮影の途中で姿を消す。岸壁に靴を残して。死体は上がっていない。
22年後、テレビ番組がこの失踪事件を取り上げ、監督だったミゲルがインタビューを受ける。
映画は失踪した俳優フリオが主演した映画「別れのまなざし」の冒頭シーンで始まる。フリオは余命僅かの富豪に、中国に住む娘を探し出すよう依頼される。
ミゲルは失踪の原因もその後の消息もわからないと答えるが、お蔵入りになったフィルムや機材を保管してある貸し倉庫に向かい、フィルムを収めた缶を確認し、若かりし頃から仲良しだったフリオと撮った写真を手に取る。
かつての仕事仲間マックスや、元恋人とも再会、フリオの思い出を語り合う。幼い頃母と共に捨てられた、と父に複雑な感情を抱くフリオの一人娘アナとも、つてを辿って会うことが出来た。
やがて一本の電話。番組を観た老人施設の女性スタッフが、似た人物が施設にいる、と。
施設を訪れ、当人であることは分かったが、フリオは全ての記憶を失っていた。
……………
映画は劇中劇「別れのまなざし」の最終場面と、現実が交叉して終わる。
ミゲルを演じたManolo Solo とフリオ役のJose Coronado の風貌が似ていること、劇中劇「別れのまなざし」の役と22年後のフリオを、同じJose が演じていることで、少し混乱。話の流れを飲み込むのに少しかかった。劇中劇では若い俳優を使えばよかったと思う。(中国人の召使の所作が、かつての洋画で見られたステレオタイプなアジア人のイメージそのもので、ここは、時代感がよく出ていた。)
エリセ監督は映像で語り過ぎない。余白を残して観客に解釈を委ねる。
元恋人でフリオとも付き合っていたロラとの再会
で、ミゲルに促されて、ピアノを弾きながら彼らの想い出の歌を歌うロラ。ミゲルの目。歌うのをやめてロラが振り向く。 (場面はすぐに翌朝に切り替わる)…一番好きなシーンだった。
未完に終わったフィルムをマックスに持ってこさせ、閉館した映画館を借りて、記憶喪失のフリオに見せる。若き日の自分の演技を見るフリオの顔。父の横顔を見るアナ。振り向いてフリオを見るミゲル。…FIN
長編第1作「ミツバチのささやき」で6才のアナを演じたAna Trent が、50年の時を経て、フリオの娘役で現れた。顔立ちはほっそりしたけれど、あの今にも泣き出しそうな瞳、きゅっと結んだ口元はそのままだった。あの映画のAna の愛らしさは、一度見たら忘れられない。
本名のAnaでAna Trentを二度起用した監督。
自分と母を捨てた記憶喪失の父に、娘が戸惑いながら声をかける。「私はアナ。」"Soy Ana."
「ミツバチ…」でも、Anaは窓の向こうの暗闇に向かって呼び掛けた。"Soy Ana."
映画ファンをくすぐるエリセ監督の遊び心は他にも。
今は使われていない映写室で、映写機の具合をチェックしていたマックスが、ミゲルに言う。「タバコは吸うなよ。」
「ニュー・シネマ・パラダイス」がすぐに浮かんだ。主人公の少年トトが慕ってやまなかった映写技師アルフレードが映写室の失火で大火傷を負ったのだった。あの映画もトルナトーレ監督の映画愛が満ちていたっけ。
83才になったエリセ監督は長編映画を4作しか発表していない。何と前作から31年も経っている。
父親に憧れていた8才の少女エストレリァが、15才になって、いなくなった父親を探しに南に(er sur)旅立つまでを描いた第二作「エル・スール」も大好きだ。
どう言う訳か、私は後編が作られると思い込んでいて、ずーっと待っていたのだけれど、実は、エストレリァが南に向かった後も続くはずだった後半部分が、経済的事情でカットすることを余儀なくされた、とずっと後になって知った。この辺り、劇中劇「別れのまなざし」の完成が頓挫したstoryと被ってくる。
そんな事情があったにせよ、一つの作品として完成された、静謐な余韻の残る素敵な作品だった。
エストレリァの元乳母や、ミゲルの元恋人のような、出番は短くとも、存在感ある魅力的な俳優が映画をピリッと引き締めているのもエリセ監督作品の好きな所。
フランコ政権下の言論や文化への弾圧による表現の困難や、主義の異なる民衆間の分断が、民主主義になっても永く尾を引いたであろうスペイン。
エリセ監督の作品には、映画への熱い思いと共に、表現者として、歴史や現実との相剋、苦悩が窺われ、それが作品の魅力ともなっていると思う。
「瞳をとじて」では、ミゲルをエリセ監督の分身として、さらりと、より深く、語らせていると感じた。100分に満たない前2作に比して、169分という長さは集大成ということか。
本作も含めて、気付かなかった隠喩、暗喩をちゃんと読み解くために、もう一度作品を見直してみようと思う。