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はあちゅう作品にみる「ブログ的な小説」とは?

 書きにくい書評というのはふたつあって、1つは作者が知り合いであること、そしてもう1つが本職が小説家でない有名人の小説だと個人的におもっている。
 前者についてはやっぱりネガティヴなことを書くときにどうしても作者の顔がチラついて萎縮してしまうことがあるのだけど、ここ最近は「それはそれ、これはこれ」と割り切って知り合いだろうが他の作家と書評の書き方を基本的に変えないことにしたら、わりにみんなよろこんでくれた。

 そして今回とりあげる作品、はあちゅう「通りすがりのあなた」は後者のタイプに相当する書きにくい書評なのだけど、このタイプのものは安易に「おもしろくない」と言いにくい性質を持っているからだ。
 そもそも小説を「おもしろくない」と断言することの方がむずかしいのだけど、作者が著名人である場合は妙なバイアスをものすごく感じてしまう。
 書き方を間違えれば「本業じゃないひとをたたきたいだけのひと」ととらえられかねないし、そう思われるのはこちらもしてもだいぶ部が悪い。
 早い話、又吉直樹くらいにわかりやすく傑作を書いてくれればすんなり書けるのだけど、世の中はそんなに甘くない。というか、本業小説家の作品であっても基本的に「手放しで褒めたい」ようなものはなかなかお目にかかれないのだけど。
 ともあれ、ぼくとしては本業が小説家であろうとなかろうと、肩書き的なものは小説のおもしろさに影響を与えることはないと考えている。

内容的なもの

言葉や距離を超えて築かれる、友達とも恋人とも名づけられない“あなた”との関係。7通りの切ない人間模様を描く、はあちゅう初の小説集!
Amazonからの引用

  7編とも、はあちゅうを想起させる女の子が主人公で海外体験みたいな感じのエピソードがぽんぽん出てくる。

掲載作品一覧
・世界が終わる前に
・妖精がいた夜
・あなたの国のわたし
・六本木のネバーランド
・友達なんかじゃない
・サンディエゴの38度線
・世界一周鬼ごっこ
 

 この短編集の最大の特徴は「良くも悪くもブログ的」であることだとおもった。

ブロガーの生存戦略

「ブログ的な小説」の詳細については後述することにして、「ブログ的な小説」が生じることについてはとても自然なことだとおもうし、そういう小説が深掘りされてもいいんじゃないかとおもっている(もちろん安易な作家のキャラクター化ではなく、表現レベルで実作に落とし込まれているという意味で)
 ブログをやっているひととかにはけっこうおなじみの話題なのだけれど、いまブログは体育会系的な価値観が広がりを見せている。運営者自身をブランディングし、ブログのキャラクターを明確化させて読者を獲得し、アフィリエイトによって収益を得ることが主流になっている。
「収益」という絶対的な価値観が生じたがゆえに、その数字を少しでも高めようと個々のブロガーはその方法論の共有と実装、そして改良を繰り返していて、今やブログ業界はかなりシステマティックな性質を持っているともいえる。「プロブロガー」を自称するひとたちも台頭し、かれらは自分自身の「生き方」さえも商品化している。
 ちなみに「はあちゅう」はプロブロガーではない。
 プロブロガーではないのだけれど、彼女が注目を集めるきっかけになったのは紛れもなくブログであり、その後の活躍を支えるキャラクター作り(ブランディング)については、上記で述べたような「ブロガーとしての規模拡大手法」そのものにおもえる。自身の私生活を切り売りしているかといわれればよくわからないけれども、すくなくとも「はあちゅう」たる人格による思考をかたちにし、それを商品化して社会を生きているようにぼくはおもう。
 究極的にはブロガーに限らずどんな仕事でもなんらかの方法で「自らを商品化する」ことが重要な処世術となっていることは否定し難く、「大企業に勤めていても将来の安泰を保証される訳ではない」という風潮が色濃くなるにつれ、こうしたブロガー的思想の影響力はますます大きくなるだろうとおもう。

「ブログ的な小説」とは?

 ここで「ブログ的な小説」について説明したいとおもう。
 その話をするにはそもそも現在「人気のブログ」はどのようなものが多いのかという話になるのだけれど、「人気ブログの定義」なるものは存在しないしブログの読者数統計(はてなブログでプログラムぶん回して出してたひとがいましたね)を参照する気もない。
 ぼくがここで考えていることなど印象論の域を出ないのでそういう厳密性についてはここでは許して欲しいのだけれど、個人的な体感でいえば「私生活をチラつかせながら自己啓発・オピニオン系の記事を量産するブログ」が高い収益を上げている。(ここではガチガチのアフィリエイターは別物と考えています)
 実際にプロブロガーの運営するブログもだいたいがこのスタイルをとっているし、そうおもうと「なんだよ、みんな自己啓発大好きじゃねーか」とおもう。

 しかしここにひっかかることがある。自己啓発本の類がすごく嫌いなぼくでも、実は本屋でおもわず手にとってしまった時期があって、それは会社員をやっていて営業成績がゴミクソで死にて~とかおもっていた時期だった。
 こういう「心が弱っている時期」というのはどうしようもなくなにかに縋りたくなる欲求があるようなきがする。すくなくとも、ぼくはその感情を否定できない。
 できるだけ安易なかたちで「他者の経験」を仕入れ、「ダメなじぶんの承認」と「より良い人生の可能性」を欲する……人気ブログはこういう構造があるように感じる。

「ブログ的」とはこのような消費的な読書欲求とぼくは考えている。

 そして作者にちかい登場人物の体験談を通して手軽に仕入れることできる「意味」を軸に据えた小説を「ブログ的な小説」だとしてみた。

「ブログ的な小説」が文学勢に黙殺される理由

 すらりと読めて明確な意味が読み取れる小説はそれなりに良い読後感を得られるし、大なり小なりの他者の価値観に触れることができる。これはこれで大きなメリットで、そりゃわかりやすいにこしたことはない、と考えるひとも多いだろう。
 でも、こうした小説は文学勢(「純文学」愛好家)の興味はおそらくひかない。実際に、文學界の新人創作月評での評価はかなり悪かった。

 ぼく自身が「通りすがりのあなた」を読んで強く感じたことは、
【この作者はもしかしたら「伝える」ということと、「表現する」ということを区別していないんじゃないか?】
 という疑問だった。もうすこしわかりやすくいえば、
【小説を「じぶんの考えを伝えるためのツール」とみなしているんじゃないか?】
 という疑問になる。
「伝える」ことと「表現する」ことのちがいについてきちんと説明するのはむずかしいのだけれど、全編を通して「体験談的なエピソードに文学風の語彙や言い回しを加えることで小説に擬態している」という感触がある。こうなると、「べつにこれ、小説じゃなくてもよくないか?」とおもえてならないし、そういう感覚が文学勢の嫌悪感を煽っている可能性もある。 

世界とわたしの鬼ごっこ

 もちろん、文学風の語彙や言い回しなど使わなくったってちゃんと小説になる。
 作中で語られるエピソードは部分的にモデルとなったひとや出来事があったにせよ、きちんとフィクションたる虚構を加えて構成されているとおもうし、虚構などいっさい使わない散文でさえ自分(=作者)が小説だとおもえば小説になるとぼくはおもう。
「小説とは何か?」という問いは大きすぎるがゆえに考えることは困難なのだけれど、文章により与えられた世界があり、その世界を介して思考したりなんらかの感情を抱いたりできれば充分に小説だとおもう。

 そう考えるとエッセイやブログと小説の境界はものすごく曖昧になる。

 そしてブログ的な小説がおもしろくなる突破口はここにあるんじゃないか、とぼくはおもう。私小説でもオートフィクションでもない、ブログ小説というものが生まれたら素朴におもしろい。
 現在、作者自身か似た人物が作中に登場し、虚実入り乱れたエピソードがひたすら続くという作風(オートフィクションなどと呼ばれることもある)が世界中でよく書かれている。もちろんこれらの小説は「ブログ的」からはほど遠く、エピソードを重ねるにつれて複雑化していくのだけれど、国境や言語のちがいさえ乗り越えた世界をあぶり出そうとする野心を感じる。
 はあちゅうの小説に、じつはそういうものとの関連を感じていた。群像で3つの短編を読んだときは破り捨てたい衝動に駆られるほどの怒りを感じたものの、やはりどこか捨てられない「新しさ」と呼ぶにはまだ早すぎる核のようなものがないわけではない。好き嫌いを取っ払って読んだとき、世界の文学シーンとの接点がなにか見えるんじゃないかという予感がほんの、ほんの、ほんのすこしだけあった。

 世界の「オートフィクション」作品群と、はあちゅうの小説には決定的なちがいひとつある。
 前者は「作者でもわからない世界にむかってことばが積み重ねられる」のに対し、はあちゅうの小説は「あらかじめ確定した世界(=はあちゅうが伝えたい世界観)から読者にことばが投げかけられる」ということだ。はじめから何もかもが完結していて、観測する世界に動きはない。 

 世界が先かわたしが先か……という問題がそこに横たわっているわけだけど、その関係性について答えをだすのではなく、ありかたの可能性を浮かび上がらせるのが小説的想像力だとおもう。世界が確定した安全なところからじぶんの正しさを語っている場合じゃない。
(はあちゅうに限らず)ブロガー的なスタンスでは想像力が未確定な世界へ踏み出せるレベルに達するようにはとうていおもえないのだけれど、不可能とおもえることにこそ可能性があるんじゃないかと信じたいぼくもやっぱりいる。
 他にも「もう二度と会うことはない(だろう)ひととの名付けられない人間関係」であることありきで語られるこれらの物語では、人間関係の多様さを許容するやさしさのようなものがあるようで見えて、実は「結局のところ他人でしかない」という残酷な無関心もはらんでいると読めるが、自己肯定に終始して残酷さの方についてはあまり考慮されていない印象があるなど、いろいろ検討されるべきことはまだまだ山積しているように感じる。

 ともあれ、文学勢やアンチはあちゅう勢こそ冷静に読んで欲しい小説集だった。

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」より転載  

 

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大滝瓶太
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