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自由とハラスメントについてのモロモロ
近年、ハラスメントについて様々な団体がガイドラインを定めており、そのうちのいくつかは広く一般に公開されている。そういった業界の流れは非常にいいことであると思うし、これまで見過ごされてきたハラスメントの問題が少なくとも議論の俎上にあがるようになったことだけでも大きな進歩といえるだろう。ただ、僕個人としては現在、流布されつつある共通認識に対して違和感を覚えることも多い。それも片言隻句について微妙なズレを感じているというよりは、根本的なものを感じることが多いのだ。そこで、僕は僕でいずれ自分たちの団体の新しいガイドラインを、その違和感を克服した上で発表したいと考えてきた。そのためには、一足飛びに結論としてのガイドライン本文を発表することを目指すよりも、以下に示すようなエッセイ的な言葉を重ねていって思考を練り、いずれ体系的な、なんらかのルールの原型になるような話にまとめていきたい。
2022/10/06のtweetより。
WS開催に際するステイトメントについて。
ワークショップをするに際して、近年は「ハラスメントはしません」「私たちはハラスメント対策を講じています」ということを言明する姿勢が増えています。今回、私たち(アマヤドリ)もWSを開催するにあたってその種の「ステイトメント」を出すべきか迷いました。
ひとまず今回は、良いワークショップをやりたい、という私たちのスタンスを信じていただいて、それで進めていければな、と思います。おそらく、ハラスメントが無いこと、少なくともその状態を目指すことは当然のことで、ひとつひとつに宣言が無くても、その種の安全は担保されるべきなんでしょう。
もちろん、「当然」安全であるべき場所が安全ではなかった、という不信を業界として買っている現状があるわけで、そしてそれは必ずしも的外れではないわけですから、その事実は真摯に受け止めなければいけません。ではなぜ、アマヤドリはその種の宣言を今回のワークショップに際して出さないのか?
ステイトメントの量が増えたからと言ってそれが安全性の増大に繋がるとは限りません。不信がベースになれば事前の説明が大量に必要とされ、時にそれは、あとで問題が起こらないための言い訳ともなるでしょう。私たちは、ハラスメントが起こらないように当然、取り組むし、そのことを信じていただきたい。また、その上で瑕疵があればちゃんと明らかにしていきたい。そう思います。
「あらゆるハラスメント」を撲滅することは可能か?
近年はそこかしこで、「あらゆるハラスメントを決して許さず」とか「あらゆるハラスメントを撲滅し」などという表現を見かけるんですが、僕はそういった表現にはなんだか、不正確なものを感じるのです。誠実そうに見えて、かえって不誠実な文言に思えてしまうのです。
何がハラスメントであり、何がハラスメントではないのか? という問題はいつもとても曖昧です。不確かなものです。主観的な要素がとても重要になってくるわけですから、ハラスメントにまつわる曖昧さは、必要なものだとさえ言えるでしょう。また、主観的なものであるがゆえに、ある行為がハラスメントか否かを決定するプロセスの中には、いつでも「権力」が紛れ込んでくる余地があります。そういった意味で、「あらゆる」という言葉づかいによってあたかもハラスメントの総体を把握できるかのように振る舞うことは、正確性を欠いた態度のように僕には映るのです。
もちろん、疑いようもないハラスメント行為は断罪されるべきですし、そういった疑いようもないアウトな行為、犯罪的な行い、は確かに存在します。それは、単純にダメでしょう。問題は、「ん? 今のはどうだろう?」とか、ある人にとってはありだけど、ある人にとっては無し、といった場面です。
そういったグレーな事象に関しては絶えざる話し合いによって解決していくしかないのではないでしょうか。たとえば、先輩が後輩を居残り稽古に誘ったとしても、それが必ずハラスメントであるとは限らない、と思うんです。少なくとも、誘うことそれ自体を取り締まる法律はないわけです。
「あらゆるハラスメントを決して許さない」「絶対に撲滅する」などと宣言してしまえば、「ん? 今のってハラスメントじゃない?」「リスペクトが欠けてなかった?」という、疑いが出た場合に、柔軟な対応が損なわれるのではないかと、僕は危惧します。
ハラスメントが「あってはならないこと」になればなるほど、それが実際に発生した時に「そんなものはここにはない!」という強い否認を生むでしょう。ですから、「ハラスメントを絶対に許さない」という考え方はむしろ危険で、その考え方によってこそハラスメントの事実が隠蔽され、アンダーグラウンド化する、つまり、「あらゆるハラスメント」の撲滅を目指すことによってむしろハラスメントは増殖するのではないか、とさえ僕には思えるのです。
「ハラスメント行為は常に極悪である」という図式で「常識」が形成されていけば、多くの人は「自分は極悪ではない」と思いたいので、「私はハラスメントなどしていない!」と言い逃れすることになるでしょう。これでは、問題は解決に向かいません。そしてすでに、この種の現象は始まっているのではないでしょうか?
複数の人が集まれば不可避的にそこに権力は発生するし、人間が人間である限り暴力性がゼロになることはありません。その意味で「あらゆるハラスメント」が消滅する日など決して来ないと僕は思います。むしろ、人間が集まる限り必ずハラスメントと共にある、と考えるべきでしょう。それは決して、絶望すべきことではないはずです。
このあたりに関しては改めて論じたいが、差し当たって現場の問題意識として、ハラスメントにまつわる「道徳的な問題」と「犯罪的な問題」の切り分けの必要性を提起したい。なぜか?
・キリスト教的に言えば、私たちはcrime(犯罪)を避けることはできるかもしれないが、sin(罪)を避けることはできない。
・仏教的に言えば、私たちは「悪」を避けることはできるかもしれないが、「業」からは逃れられない。
からだ。ハラスメントが集団において問題化する際にはおそらく、犯罪処理として対処すべき問題と、道徳/倫理的なトピックとして討議しなければならない問題、あえて言えば、芸術家として肯定しなければいけない業の問題とがあり(故・立川談志師匠の有名な言葉に「落語とは業の肯定である」てなものもあり)、そのことを切り分けて考えるべきなのではないだろうか。確かに犯罪行為がまかり通るようなことを決して許してはならないだろう。しかし、sinや業の問題からも人間が逃れられるなどと勘違いをして、集団内部でお互いを追求しあっても問題は解決に向かわない。「総括せよ!」などという掛け声の先に何が待っていたのかを、私たちは歴史から学んでいるはずだ。
問題解決のために、必要とされること。
では、問題を本質的に解決するためには、なにが必要なんでしょうか? 簡単に答えは出ませんが、まずは柔軟に話し合えるように、お互いに胆力をつけることが重要だと思います。「それってリスペクトが足りていないんじゃない?」と指摘し合える空気を作っていきたい。これは、その場に参加する成員みんなの問題でしょう。
なんらかの指摘を受けた側が、真摯にそれを受け止める、という知性を持つ必要があるし、また、それを指摘する側にも、沈黙しない勇気、自分が発言する覚悟が必要です。いや、ここを無闇にハードル上げたくないんですが、でも、どうしても一定の覚悟は、要る。
そして同時にお互いに安心が要るな、とも思うんです。指摘された側が、「確かに今のは敬意を欠いていた。申し訳ない」と認めたとしても、それで抹殺されるわけではない、すべてを失うわけではない、という安心。そして何にも増して、指摘する側が、それで立場を危うくされることは決して無いんだ、という安心感を得ることが絶対に必要です。
揉めたくない、傷つけたくない、ということを多くの人が考えている時代です。だからこそ、自由の問題をセットで考えなければ、どんどん表現が窮屈になってしまうぞ、とも思うんです。自由、の問題は、そうなんですよね。本当に、考えなければいけない。
ここ何年かで明らかになったことのひとつとして、日本人は良く言えば協調性や規範性が強い一方で、悪く言えば同調圧力に弱く、個人の自由を主張し続ける力が圧倒的に弱い、ということがあるかと思います。だからこそ、強く自由については意識しないと、割りと簡単にこの国の人は自由を手放してしまうんじゃないか、と。その危機感は持っていたいと思うのです。
嫌われる勇気、なんて言葉が少し前に随分と話題になりましたが、語弊を恐れずに言えば、それと同時に「傷つける覚悟」をみんなが持つ必要があるんじゃないでしょうか。だって絶対に人を傷つけたくない、の究極の形は「誰とも何も関わらない」ですから……。
ここから20228/10/07日のtweet。
僕が特に疑問を抱いているのは、「先輩は後輩に○○してはならない」的なハラスメント規約が、明らかに法律を越えた禁止、すなわち自由の抑制を含んでいる場合です。恋愛禁止の規定などもそうなのですが、その、本来保障されるべき個人の自由を抑圧している権力の主体は何なのか? 誰なのか? よくよく考えてみる必要があるでしょう。
仮にそれが劇団の主宰者個人であれば大問題ですし(実際にそういった運営が成されいる団体は存在するが)、運営サイド、主催者サイド、などの集団であったとしても大きな疑問が残ります。法律を越えて個人の自由を抑圧する権限は、集団においてしばしば内規(校則・社則など)として現れるでしょうが、複雑な内規の増大は不要な権力の増大を招く危険があるのではないでしょうか。
そもそもハラスメントにまつわる約束事が、権力者に過大な権力を与えないことを目的としているならば、「法律を越えて個人の自由を抑圧する権限」なんてものを劇団/運営/主催者サイドなどに、ましてや主宰個人などに与えていいはずがないでしょう。適正な運用がなされなかった時に誰がその権力を指弾するのでしょうか。その意味で、僕は昨今の演劇界のハラスメント規約には大きな疑問を感じているのです。
ハラスメントの問題に関しては、誰かが悪いことをしたら「上の人」に取り締まって欲しいな、などと考えていては問題の解決には至りません。なんとなれば、上の人、こそがハラスメントの主体であることが多いからです。やはり、参加者個人がイザという時には揉める覚悟、下剋上をする覚悟を持たなければ、フェアな現場は形成されないのではないでしょうか。多くの規約にはこの観点が欠けていると僕には思えるのです。
「誰か上の人」が公正で安全な場所を作ってくれたらいいのに、という考えでは、いつまで経っても権力に追従してしまうばかりです。不適切な権力の行使があったらいつでも反乱を起こす、そういった覚悟が個々人に求められているのではないでしょうか。その責任を背負ってこそ、自由な現場が勝ち取られるはずです。
どの立場で、何を詫びているのか?
この話題に関連して、もう一点。僕もつい自分で言ってしまっていたことで、よくよく考えてみて、あれ、おかしいぞ、と思い直したことがあるので追記しておきます。それは、年長者からなされる若者に対する「配慮」について。
「若者のみんな、もっとフェアな世の中を作ってあげられてなくてごめんね」みたいな、そういう言動が世の中にはちらほらあるかと思います。私たちの世代の責任だった、みたいな話です。まあ、心情的には正直、わからなくもないんです。だからそういうことを僕も言っていたことがあるんですが、いや、待てよ、と。この「謝罪」は、どの程度正当なものなのでしょうか?
僕は、自分が若い時に年長者に対して「なんでもっとフェアな世の中を作ってくれなかったんだ!」なんて思いませんでした。それぞれの世代で精一杯やったんだろうし、それでも解決できない人間のバカさ加減は残る。そういうもんでしょう。
また、おかしいと感じたことは自分で変えるよ、とも思っていました。あんな先輩の真似はするまい、というやつですね。若者、とは必ずしも年長者を敬うばかりではないですし、むしろ年長者を否定することによって新しい時代を切り開いていく面も強いわけです。だからこそ、「若者よ、ごめん」みたいな発言を、若者だったころの自分は欲していませんでした。知らねーよ、と思っていたんでしょうね。
「若者よ、大人たちがしっかりしてなくてごめんね」という言葉が発せられる時、若者、に対して、同じ大人としてのリスペクトが本当に払われているのでしょうか。その「謝罪」がなされる時、本当は若者を自分より未成熟で、力の無い存在と見なしていないですか? という疑いも、僕にはある。
「若者よ、ごめん」という謝罪が受け入れられることを期待する態度の中には、若者は年長者に従属していてほしい、という力関係の固定化が、暗に望まれているように感じてしまいます。その心情の中に僕はあまり清潔なものを感じません。謝られた方だって、なんだか身のやり場に困ってしまうのではないでしょうか。
謝られてしまったら、今度は若者が「わかってあげなくてはいけない立場」に追い込まれてしまうことでしょう。無論、そんな必要はないわけです。知ったことか、という態度でいたらいいんじゃないでしょうか。なので僕は、今後とも漠然と若者に謝るようなことはしないでいようと思います。その代わり、大いに生意気を、異論を、反論を、歓迎できる大人でいられるよう修行していきたい。そう、思います。