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自己とは何か?もしも僕が志村けんだったら

「志村けんの姿をした僕と、僕の姿をした志村けん。どっちとならセックスできる?」と彼女に質問した事がある。
綱渡りのような質問である。一歩間違えたら喧嘩になりそうだが、いい彼女なので真面目に答えてくれた。どっちも嫌だと。

上の質問はおふざけのような質問だが、結局のところ言いたいことは、僕を僕たらしめているものは何かという事である。事故で顔がなくなってしまい、気付いたら別人の顔になっていた。さらに、頭を強く打ち記憶まで失ってしまった。僕は名前すら言う事ができない。それは僕か?

これは哲学的な問題なのだ。思えば幼い頃から、生や死ということに対して興味があった。そんなことを言えば、幼少期に身近な人間の死に触れたのかと勘ぐるかもしれないが、全く触れていない。恵まれた人生である。話は変わるが、僕が覚えている最古の記憶は、7-8歳の頃の家族旅行だ。夜眠るときに、一人でメソメソ泣いた。理由はこうである「今日はとても楽しかったな。こんな旅行に連れてきてくれるなんて、パパとママはなんていい人たちなんだろう。こんな良い人たちも、いつかは死ぬのか。辛い」

そんなこんなで僕はすくすくと育ち、アラサーに足を踏み入れている。最近前にも増して、生死について考えるようになった。なぜ自分が生きているのか、なぜ僕は明日死ねないのか、そんなことを考えると夜も眠れなくなってしまう。仕事中に死とは何かを考え、デスクトップに「死とは」というフォルダを作りアイデアをためている。プレゼンの時に、大画面に死とはフォルダが映し出されてしまい、失笑を誘ったあのフォルダは今も生きている。開き直り、僕は将来死を扱う事業部、Death事業部を立ち上げたいですと吹聴しているため、幸か不幸か誰にも何も言われなくなった。キャリア的に見れば不幸かもしれない、でも個人的には幸である。こんなことを考えていると、幸福って何だ?と考え始めてしまうのだから、もうどこにも救いはない。

いや考え続ける事が救いなのかもしれない。こうやって僕が思うがままに日記を書く。誰が見ているかはわからないが、noteのアナリティクスによれば誰かは見ているらしい。いつか一緒にみんなで話しができたら良いなと思う。もしかしたら、誰もが納得してしまう人間の真理にたどり着くかもしれない。そしたらみんなで教祖になっても良いかもしれない、ベンガル鳥教。「みんなで」と書いたのに、いつの間にか僕が教祖になっている。目立ちたがりである。まぁそういうものだろうと思いながら、閉幕。





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