ミイラについての短い話
いつもなら長いコラムの導入に使うような話なんだけど、世界史その4にうまく組み込めなかったので、独立したエッセイとしてアップします。
以前、wちゃんが図書館で借りてきた古代エジプトの本。子ども向けの本はどのように纏めてあるのかと思って、僕も読んでみました。冒頭、自然にできたミイラだという写真が掲載されていて、極度に乾燥したエジプトの風土では、このような自然のミイラはありふれたものだったという説明文が添えられていたと思います。現物が手元にないので、しっかりと確認はできないのだけれども。
その写真を見たとき、「ああ、これを見慣れていたら、死んだあとの遺体が土に還ってなくなってしまう、というのはひどく寂しいことのように思えるだろうな」という感慨がわきおこりました。
それはただの思い込みなのだろうけど、それでも古代エジプトの人々の心に触れ、気持ちを理解できたように思ったのです。
日本に生まれ育った僕にとって、遺体というのは火葬しなければ腐って土に還るものだし、火葬すれば灰になるものです。そしてアイデンティティを喪失し、何か大きなものの中で一体になると言うような感覚に肯定的で、ロマンのようなものさえ感じたりもします。
これは日本の精神的土壌とか、古神道とかそういう大袈裟なものではなくて、10代の頃に触れた「火の鳥」と「ブッダ」の影響というだけかもしれないのですけれど。
全くの主観で単なる思い込みに過ぎないから、これが古代エジプトの人々がミイラ作りに多大な熱意をもってあたっていた理由だと他人に主張することはできません。だけど僕は「わかった」と思ったのです。わかったのは単にミイラ作りの動機というだけでなく、魂の奥深いところ、人としてかなり根本的なところで、古代エジプトの人々と現代の日本人が違っているということが、理屈ではなく感覚で「わかった」のだと。
自分とは違う人々が世界をどのようなものだととらえ、日々の生活をどのように感じ、命の終わりをどのように迎えたのか。それを完全に理解することは難しいかもしれないけれど、それを知ること、知ろうと努力することもまた歴史の意義なのでしょう。そしてそれは同じ文化、同じ時代に暮らす他者を理解するのにも役立つのかも知れないのだと思います。
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