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人生、思い通りにならないことは度々あります。「苦しい時の神頼み」で、普段は信仰心を持たなくても、そんな時だけ神にすがるという人もいることでしょう。 英語では、「好天時だけの信仰(fair-weather faith)」という言葉があり、それは、天気の良い時、つまり、物事がうまく行っている時だけ立派な信仰があるように見えるけれど、うまく行かなくなった途端に信仰が揺らいでしまうことを言います。 本当の信仰は苦しい時にも楽しい時にも神に頼り、天気の良い日にも悪い日にも神を信じる
何かの記事を読んでいて、「コーチには忍耐が必要」という言葉が目に留まりました。コーチがスポーツ選手を成長させるには、愛に裏打ちされた忍耐が必要だと言うのです。 確かに、選手が新しい技術を習得したり、記録を更新したりするには忍耐が必要ですが、コーチも忍耐をもって選手の成長を見守らなければ選手を支えることはできません。そして、選手がそのことを理解して、コーチを信頼するのも大切なことです。 それは、私たちと神との関係にも言えると思います。神が愛情と忍耐をもって私たちの成長を助け
「病気は突然やってくる」と言います。医者からすれば、それは突然のことではなく、身体の中で不調が蓄積するなどした結果なのですが、患者にとっては、自分の目に見えないところで起こっていることだし、しるしがあっても気づかない場合も多いので、病気が見つかった時には、突然だと思えるものです。 7年前、私がパソコンを操作していた時、体がしきりに痒くなり、掻いたところがミミズ腫れになりました。文字通り、かなり太くて大きいミミズのような形に、ぷっくりと皮膚が盛り上がったのです。そんなことは生
聖書で伝道の書(コヘレトの言葉)を初めて読んだ時、特に印象に残った言葉があります。 人生は順境(物事が具合よく運んでいる状態)ばかりではなく、必ず何かしらの逆境(物事が思い通りに行かない状態)もありますが、そんな人生の日々をどう過ごせば良いのかを教えてくれる言葉です。 順境の日と逆境の日「彼とこれ」とは、順境の日と逆境の日のことです。 順境の日には、それを神の祝福としてありがたく受け止め、神に感謝して楽しむなら、神もそれを喜んでくださることでしょう。 そして、「順境の
昨日からアドベント(待降節)が始まりました。昨年も書きましたが、アドベントと言えば、私は「闇を照らす光」を想います。 夜の闇に包まれたとしても、やがて朝日が昇るように、深い絶望にあっても、「義の太陽」「すべての人を照すまことの光」と呼ばれるイエス・キリストが私たちを照らしに来てくださいます。(マラキ4:2、ヨハネ1:9) 闇の中でこそわかる光のありがたさ私たちは光があって当たり前だと考えますが、世界はそもそも闇と混沌の状態で始まりました。 それはどれほど荘厳な光景だった
人間的に成長したいと考えることはあるでしょうか。それは、どのくらい本気でしょうか。 使徒ペテロは、このように書いています。 「成長しなさい」とペテロが言うのは、植物が育つのとは違い、人間の成長には自分の意志が大きく関わっているからです。 その意志があり、本気で成長したいと思う方のために、クリスチャンとして霊的に成長していくためのヒントとなる聖句を紹介します。 栄養(御言葉)と運動(実践)体の成長には栄養と運動が必要であるように、魂の成長には御言葉とその実践が必要です。
忍耐には様々な形があり、たとえば、他の人の過ちなどについて寛容であること(コロサイ3:13)もそうだし、困難な状況において諦めずに生き続けることもそうです。今回は、後者について、私の好きな聖書の言葉を紹介します。 忍耐は必ずしも一番大切なものではなく、我慢せずに声を上げたり、物事を変えようとしたりすべき時もありますが、ここでお話するのは「粘り強さ」「諦めずにがんばる」「最後までやりとおす」といったポジティブな忍耐についてです。 苦しみを通して忍耐を学ぶ忍耐で有名なヨブでさ
私は、夕方の空を眺めるのが大好きです。 美しいグラデーションとともに、次から次へと色を変えていく空を見ると、神は何て素晴らしい芸術センスをお持ちなのだろうと感動します。 天地創造と夕夕方が聖書で最初に出てくるのは、天地創造の場面です。 創造がなされた6日間、つまり6回、「夕となり、また朝となった」という言葉が繰り返されています。 その日が終わったことを表現するだけなら「夕となった」だけでも良いような気もしますが、「夕となり、また朝となった」とあるので、暗くなってすべて
「だから」「しかし」などの接続詞(つなぎ言葉)って、会話や文章の内容に感情や意思の表情を加えられる、とても興味深い品詞だなと思います。 昨日は、旧約聖書のハバクク書を読みながら、そんなことを考えていました。 特に、この箇所です。 農作物は台無しで、家畜もいなくなる・・それは一大事であり、「だから」悲しみに暮れてもいいはずなのですが、ハバククはこう続けます。 接続詞が「だから」ではなく、「しかし」であるところに、状況ではなく神とその約束を見ようとするハバククの意思が表れ
カレンダーを見て、今日は祝日だと勘違いしていた方も多いかもしれません。(私も先月までそう思い込んでいました。) 今年は、スポーツの日がオリンピック・パラリンピックの開催に合わせて、7月に移動しましたが、例年だと今日がその日でしたね。 「スポーツは人生の縮図」という言葉があり、人が人生で経験するさまざまな感情が凝縮されていると言われます。 人生がスポーツにたとえられることがよくあるのは、それが理由であり、新約聖書の書簡(手紙)には、そういったたとえが幾つも見られます。
神に何かを祈り求める時、その状況がさまざまであるように、祈りの答えられ方もさまざまです。 たとえば、すぐに叶えられることもあれば、時間がかかることもあります。 ある時、友人が「糖尿病と診断された」と泣きながら電話してきました。 「一度かかると一生付き合わないといけない」と言われている病気なので、かなりショックを受けたようです。 私は友人を落ち着かせてから、糖尿病が癒やされるよう、電話口で祈りました。 それから少しして、ふたたび連絡があり、再検査してみたところ、糖尿病
少し前に、友人から「祈ってほしい」と連絡があり、話に耳を傾けている内に、「主よ、いつまでですか」という詩篇13篇からの言葉が思い浮かびました。 その人の悩みは、かなり長い期間続いている問題が関係しており、「主よ、いつまでですか」という問いは、本人もそうだと思いますが、聞いている私にとっても、自然と出てくるものだったのです。 そこで、電話口で友人のために祈りながら聖書を開き、祈りの言葉の一部として詩篇13篇全体を引用しました。 信仰のあるなしに関わらず、人生に逆境や痛みは
私たちの人生には、「待つこと」がいっぱいあります。 仕事時間が終わるのを待つ、病院で診察の順番を待つ、スーパーのレジで待つ、電車やバスが来るのを待つ、注文した商品が届くのを待つ・・。 それよりもう少し忍耐の必要なことを言えば、病気やケガが回復するのを待つ、職探し中でいい仕事が見つかるのを待つ、理想の結婚相手を待つ、問題に対する解決策が見えてくるのを待つ、苦しい状況が好転するのを待つ・・といったことがあるでしょう。 あなたは、今、何かを待っていますか? 詩篇には、かなり
試錬や苦しみは世の常です。 それを通して、私たちは信仰が試され、同じような苦しみにある人への優しさや思いやりを身に着け、また忍耐を学びます。 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(2コリント1:4 新共同訳) 「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」(ヤコブ1:3) 「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格