あきらめずに祈り続ける
神に何かを祈り求める時、その状況がさまざまであるように、祈りの答えられ方もさまざまです。
たとえば、すぐに叶えられることもあれば、時間がかかることもあります。
ある時、友人が「糖尿病と診断された」と泣きながら電話してきました。
「一度かかると一生付き合わないといけない」と言われている病気なので、かなりショックを受けたようです。
私は友人を落ち着かせてから、糖尿病が癒やされるよう、電話口で祈りました。
それから少しして、ふたたび連絡があり、再検査してみたところ、糖尿病が完全に治っていたというのです。
そんなにも素早く祈りが叶えられ、私たちは神に感謝しましたが、すぐには叶わないことも多くあります。
その理由の一つは、祈り続けることによって、成長したり、忍耐などの大切なことを学んだりなど、私たちの益となることがあるからです。
しかし、糖尿病にかかった友人の話のように、すぐに叶えられることがあるので、そうでない時にも、私たちの祈りはちゃんと神のもとに届いており、目には見えないところで何かが起こっていると確信できます。
ですから、一度祈って、何も起こらないように見えたとしても、そこであきらめてはいけません。
最終結果が出るまで、あるいは、神が「私には別の計画がある」と言われるまでは、祈り続けることです。
先週お伝えしたがんの友人についても、私はあきらめずに毎日祈っています。
私たちの祈りは、最終的には「あなたの御心のままになりますように」ですが、状況から勝手に「こうならないのが神の御心だ」と判断して、あきらめてしまうべきではありません。
イエスでさえ、人類の救済のために十字架にかかることについて、「御心のままに」と父なる神に言う前に、できればそうしなくても済むよう、苦しみ悶えながら、祈られました。(マルコ14:32-41、ルカ22:39-46)
そのように何度も必死に祈り続けた上での「しかし、御心のままに」だったのです。
ルカによる福音書11章の冒頭で、弟子の一人がイエスに祈り方を教えてほしいとお願いしています。
イエスはまず、有名な「主の祈り」によって具体的な祈りの言葉を教え(ルカ11:1-4)、それから、次のたとえ話によって祈りの心構え・姿勢を教えられました。
あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、「友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言った場合、彼は内から、「面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。(ルカ11:5-8)
当時その地方に住んでいた人たちにとって、おもてなしはとても大切なものであり、ご近所さんから物を借りてまでそうするのは、普通のことでした。
しかし、昼間ならまだしも、真夜中に「パンを貸してくれ」と言われては、相手も困りますよね。
それでも、しきりに頼めば、願いが聞き入れられるだろうということです。
「しきりに」あるいは「執拗に」「しつこく」と訳された言葉は、もともと「慎みがなく」「恥を知らずに」という意味です。
つまり、「しきりに」というのは回数の問題ではなく、なりふり構わず必死に、粘り強く、ということになります。
うれしいことに、神はこの友人のように嫌がって「面倒をかけないでくれ」とは言いません。
こんなふうに嫌がる友人でも最後には願いを聞き入れてくれるのであれば、神はなおさら喜んでそうしてくださる、ということです。
たとえ話の後に、あの有名な言葉が続きます。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(ルカ11:9-10)
「求めよ、捜せ、門をたたけ」と言うだけでも、かなり執拗な感じがしますが、ギリシャ語本文を見ると、それは1回限りのことではなく、継続して行うことを意味しているのだと分かります。
ですから、神からの答えを受け取るまで、あきらめずに祈り続け、求め続け、探し続け、扉をたたき続けましょう。
そしてその過程で、私たちの信仰も成長していきますように。