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バイブルメッセージ

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毎月2回配信している聖書関連のメッセージです。
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#信仰

思い通りに行かない時に読みたい聖書の言葉

人生、思い通りにならないことは度々あります。「苦しい時の神頼み」で、普段は信仰心を持たなくても、そんな時だけ神にすがるという人もいることでしょう。 英語では、「好天時だけの信仰(fair-weather faith)」という言葉があり、それは、天気の良い時、つまり、物事がうまく行っている時だけ立派な信仰があるように見えるけれど、うまく行かなくなった途端に信仰が揺らいでしまうことを言います。 本当の信仰は苦しい時にも楽しい時にも神に頼り、天気の良い日にも悪い日にも神を信じる

どこに焦点を合わせていますか

私たちの目がいかによくできているかは、驚くほどです。単にものの形をとらえるだけではなく、色を認識できるし、周りの明るさに応じて取り込む光の量を調節することもできます。 また、見るものの距離に応じて焦点を自動で合わせてくれるので、私たちは見たいものに集中することができ、視界の中でかすんでいくそれ以外のものに、あまり気を取られずにすみます。 そういった目の機能について考えていると、『目を上げて主の御顔を(Turn Your Eyes Upon Jesus)』という賛美歌を思い

「まず」求めるべきもの

先日何かを読んでいて、「まず」という言葉が目に留まり、気になったので、聖書でその言葉が使われている箇所を検索してみると、興味深い聖句がいくつも見つかりました。 中でも、「まず神の国と神の義とを求めなさい」という言葉(マタイ6:33)は、心にしみました。 イエスはこのマタイ6章で、自分(の願望や評判や富や必要物)を中心とした生き方ではなく、神を中心に据えた生き方をすることについて、さまざまな角度から語っています。 33節は、自分の生活に必要なものに心を奪われるあまり、神に

「妨げる者」が逃げ去る時

今年の初め、新年のモットーについて祈った際、まずは旧年中に神が私の人生においてなしてくださったさまざまなことを思い出して、神に感謝しました。 声帯にできていた肉芽と、長らく患っていた皮膚アレルギーが癒やされたし、他にも祈りの答えや主の導きを多く見られた一年だったと思います。また、バイブルラインを通じて多くの方に聖書のメッセージをお伝えできたのも、嬉しいことです。 しかし、私の人生に一番のインパクトを与えたのは、12月に起こった特別な経験で、それはパウロのこの言葉を思い出さ

人生の旅路を導くナビ

聖霊のナビ日本ではクルマ所有者の8割がカーナビを装着しており、スマホやタブレットをカーナビ代わりにしている人も含めると、かなりの人が当たり前のようにナビに頼っているそうです。 特に初めての道では、ナビや地図がないと、なかなか正しい場所にたどり着けませんよね。 人生の道も同じで、自分の知恵や分別だけで進んでいると、簡単に道に迷ったり、変なところにたどり着いたりしてしまいます。 車にナビが搭載されていることを覚えて、それに頼れば目的地へ行けるように、主が自分と一緒におられる

生ける神

私の信仰生活は、神社でお祓いを受けた時にステップアップしたと言えるかもしれない。・・昨日、そんな事を考えていました。 高校3年生でクリスチャンになった私は、聖書への熱心さというよりも自分の未熟さゆえに、両親を心配させるようなことを言ってしまい、「悪霊」(イエス)を追い出してもらう必要があるとのことで、有無を言わさず神社へ連れて行かれたのです。 その神社では「万物を造られた神」が祭神(祀られている神)であると書かれた看板を見て、妙な親近感を覚えつつ、でも不安と恐れを抱きなが

主の山に備えあり

「主の山に備えあり」という言葉があります。 アドナイ・エレは、「主は備えてくださる」という意味です。 アブラハムがこの地名を付けたのは、人生最大の試練を味わった時のことでした。 アブラハムの試練アブラハムは神から、息子のイサクを「わたしが示す山で」いけにえとして捧げなさいと言われました。それはアブラハムにとって、どれほど辛いことだったでしょう。 しかし、主の示された場所に来て、アブラハムがイサクを手に掛けようとしたその時、天使に止められて、それは信仰のテストであったこ

嵐の中の平安

今日は海の日ですね。あらためて、日本にとって海がどれだけ大切なものかを考えさせられます。 福音書には海についての記述が多くありますが、そのほとんどは湖、特にガリラヤ湖のことです。 日本では琵琶湖がかつて淡海(淡水の海のこと)と呼ばれたように、ガリラヤ湖も当時はガリラヤの海などと呼ばれていたのです。 ガリラヤ湖は地中海の海面より200メートル以上低い峡谷にあるため、しばしば激しい突風が発生して荒れます。 弟子たちがそんな嵐に遭遇した時のことが、福音書に記されており、そこ

夕となり、また朝となる

私は、夕方の空を眺めるのが大好きです。 美しいグラデーションとともに、次から次へと色を変えていく空を見ると、神は何て素晴らしい芸術センスをお持ちなのだろうと感動します。 天地創造と夕夕方が聖書で最初に出てくるのは、天地創造の場面です。 創造がなされた6日間、つまり6回、「夕となり、また朝となった」という言葉が繰り返されています。 その日が終わったことを表現するだけなら「夕となった」だけでも良いような気もしますが、「夕となり、また朝となった」とあるので、暗くなってすべて

希望と信仰の「しかし」

「だから」「しかし」などの接続詞(つなぎ言葉)って、会話や文章の内容に感情や意思の表情を加えられる、とても興味深い品詞だなと思います。 昨日は、旧約聖書のハバクク書を読みながら、そんなことを考えていました。 特に、この箇所です。 農作物は台無しで、家畜もいなくなる・・それは一大事であり、「だから」悲しみに暮れてもいいはずなのですが、ハバククはこう続けます。 接続詞が「だから」ではなく、「しかし」であるところに、状況ではなく神とその約束を見ようとするハバククの意思が表れ

小さい頃は神様がいて

松任谷由実(ユーミン)さんの『やさしさに包まれたなら』という歌があります。 この歌詞には、彼女がキリスト教系の幼稚園や中高一貫校に通っていた影響が表れているようです。 「小さい頃は神様がいて」とは、子どもの頃は素直に神とその愛を信じていたけれど、大人になると子どもの頃の純粋さを失い、神も奇跡も信じられなくなってしまいがちだということでしょう。 子どものような信仰弟子たちは、自分たちが天の国で相当の地位につけるものと考えていました。 でも、そもそも、そこは心を入れ替えて