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主の山に備えあり

「主の山に備えあり」という言葉があります。

それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

(創世記22:14)

アドナイ・エレは、「主は備えてくださる」という意味です。

アブラハムがこの地名を付けたのは、人生最大の試練を味わった時のことでした。


アブラハムの試練

アブラハムは神から、息子のイサクを「わたしが示す山で」いけにえとして捧げなさいと言われました。それはアブラハムにとって、どれほど辛いことだったでしょう。

しかし、主の示された場所に来て、アブラハムがイサクを手に掛けようとしたその時、天使に止められて、それは信仰のテストであったこと、また、主は実際にはイサクがいけにえになるのを望んでおられないことが明らかになりました。

そしてアブラハムは、神がそこに備えておられた雄羊を見つけ、それを代わりに捧げたのです。

現代の私たちからすれば、わが子をいけにえにするなど、信仰のテスト以前の問題ですが、アブラハムが生きていたのは紀元前2千年頃(日本では縄文時代)であり、風習も倫理観も現代とはかなり異なっていました。

アブラハムの周りには、モレクと呼ばれる偶像に子どもをいけにえとして捧げる風習を持つ人たちがいました。聖書を見ると、神はこの風習を何度も繰り返し批判しておられますが、アブラハムの時代にはまだその聖書はおろか、十戒や律法でさえ存在していません。

そんな時代だったからこそ、これがアブラハムの信仰のテストとなり得たのです。

ヘブル11:17-19によれば、アブラハムは、神がなんとかしてイサクを生かしてくださると信じていたようです。)

とにかく、この経験によって、アブラハムは信仰が強められ、多くの人にとっての「信仰の父」となりました。

(この出来事は、イエスが私たちの罪のために犠牲の子羊となられることの予告でもあるのですが、それについては、また別の機会に。)

試練や御心は怖いもの?

私はクリスチャンになった頃、この話を読んで、神のテストや御心が少し怖くなりました。「最終的に大丈夫だったとしても、それまでの過程に自分は耐えられるだろうか」と思ったのです。

でも、それからさまざまな試練を経験し、神の導きに従ってきてわかったのは、神は愛の心で、私たちに必要なものを、私たちに耐えられる程度に与えてくださるということです。

私たちの信仰は少しずつ成長していくものであり、その成長に応じて(また、さらに成長できるように)試練が与えられ、御心が示されます。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

(1コリント10:13)

それに、「主が示す山」には、谷間で寝そべっている時には見られない景色があります。

たとえ少し困難でも、主の愛と恵みを信じて、「主が示す山」に登ってみないと、私たちのためにどれほど素晴らしいものが備えられているかわかりません。

私は若い頃、キリスト教を公に伝えることが禁じられている国へ行くよう、主から示されたことがあります。(公にはできなくても、個人的に聖書の話はできます。)

そのために、語学留学をするよう導かれたのですが、渡航費だけではなく滞在中の生活費や学費を前もって斡旋会社に払わなくてはいけません。

それ自体がまるで大きな山のように見え、かなり大変な上り道でしたが、主の助けにより、少しずつ必要額に近づいていきました。

ところが、支払の締切まであと数時間となっても、まだ何万円も足りないのです。主が導いてこられたのだから、主がその不足分も備えておられると信じつつ、祈りを捧げました。

祈り終わると、思いがけない友人がやって来て餞別を渡されたのですが、それがなんと、不足分を補って余りあるものだったのです。

私の見えないところで、主がたしかに必要なお金を備えておられたことを知って、私の信仰は大いに励まされ、神の愛と世話に感謝しました。

しかも、ギリギリの時間になってそのお金が届いたので、喜びもひとしおです。

そして、渡航先では、主の力強い働きを見、多くの貴重な経験を得ることができました。

神を信じ、神の導きに従って進むなら、その途上で困難にぶつかり、信仰が試されることもありますが、最後には主が備えておられた素晴らしいものを目にすることができます。

主の山には、たしかに備えがあります。

主が備えておられるものがお金であれ、何かをする手段であれ、奇跡的な出来事であれ、あるいは試練の先にある希望の計画であれ、信仰によって主が示される山に登ってこそ見られる景色があるのです。

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。

(エレミヤ29:11)



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